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お話を子どもとたのしむ vol.19 いいご趣味?

趣味のストーリーテリング?

 おはなしを子どもとたのしむための方法のひとつとして、わたしは、ストーリーテリングをしている。昔の同級生などに「今何やってるの?」と聞かれて、ストーリーテリングのことを話すと、たいてい「いいことしてるね」だったり、「ボケ防止によさそうだね」という反応が返ってくる。老後の趣味としては、まあまあいいんじゃないの、という「賛辞」なのだろう。
 だけど、わたしはストーリーテリングを趣味だというふうには一度も思ったことがない。もちろん、ストーリーテリングを趣味として楽しみ、極めようと努力している人たちがいることは知っているし、それを否定するものではないのだが、わたし自身は、ストーリーテリングが趣味だとは全く思えないのだ。考えてみると、どこにその違いがあるのか、きちんと他人に説明できることばを持っていないことに気がつく。今回はここでそれを整理してみようと思う。

物語の力

 わたしは、ストーリーテリングをやりたいわけじゃなかった。ただ、子どもたちに、本の中にあるいろいろな物語を経験してほしい、そのことはきっと生きる力につながるはず、という信念みたいなものは、自分の子どもを持つ前から持っていたように思う。
 そもそもわたし自身、本に助けられてなんとか生きてきた子どもだった。家が小学校の学区のはずれにあり、同級生のところに遊びに行くには大きな道路を渡っていかなくちゃならないという住環境のせいもあり、放課後は友だちと遊ぶより、家で本を読んでいることが多かった。そこでわたしは、点子ちゃんやピッピと友だちになり、ルーベンスの絵に焦がれながら死ななければならなかったネロのために憤怒の涙を流したりしたのだ。奇岩城のルパンの冒険に手に汗握り、ジムといっしょにりんご樽の中で息を潜めて海賊の秘密を聞いたのだ。そのようにして得た経験は、少ない実体験を補い、膨らませ、わたしの生活を豊かにしてくれた。本の中でたくさんの人に出会っていたからこそ、実際の生活でも臆することなくいろんな人と関係を築くことができたのだ。
 そして、長男もまた、本のおかげで成長していくのをみて、本(物語)への信頼はますます確固たるものになった。長男は3月末の生まれで、同級生の中ではみそっかす、なにをやっても遅いし下手で、友だちと遊ぶのは好きなんだけど一生懸命ついていくのにときどき疲れちゃう、というような子どもだった。字を読めるようになるのもとても遅かったけれど、読み始めたらいつのまにか本が好きになっていて、宝島やアーサー・ランサムのシリーズや、ホビットの冒険などを愛読するようになっていた。「どきどきわくわくするやつが好きなんや」と言っていたのを思い出す。実際にはできない冒険を主人公といっしょになって体験することで、彼の子ども時代は豊かなものになったと思う。

ストーリーテリングの世界へ

 長男が本を読みまくるようになるころ、私はその地域にあった「子ども文庫」のお手伝いをするようになっていた。長男が好きなだけ本を読めたのもこの文庫のおかげだ。それより少し前に、姫路文庫連絡会が前身になってできた「子どもの本の会」の月一回の勉強会に入れていただくようになっていた。姫路の「子どもの本の会」は、長年読み継がれている児童書の古典を読んで、ほんとうに子どもに求められるいい本を見極める目を養おうと、みんなで研鑽している会だ。それまでは、手当たり次第に読んで、自分が面白かったかどうかという尺度しかなかった私に、はじめて子どもの本の良し悪しを見極める物差しを与えてくれたのがこの会だった。
 「子どもの本の会」の会員の半分以上は「姫路ストーリーテリングの会」のメンバーと重複していて、子どもに本を手渡すのに、ストーリテリングという方法があることを知ったのもここでのことだった。手伝っていた子ども文庫のお楽しみ会に、姫路おはなしの会のメンバーを招いてお話を語ってもらったりしたのもこの頃のことだ。実を言うと、このときはおはなしを聞くのが楽しくて、子どもたちの反応のことは覚えていない。(語られたのは「アナンシと五」だった。)
 そうこうするうちに、「姫路ストーリーテリングの会」の定例会にもお邪魔するようになったのだが、なにしろ聞くのが面白くて、自分でおぼえて語るなんてとんでもないと思っていた。自分は文庫のおばさんとして、子どもに本を貸し出すお手伝いができればいいと思っていたのだ。
 だが、それだけでは、子どもと、本当に出会ってほしい物語とをつなぐことは難しい。子どもが主人公といっしょになって、人生を歩き、人と出会い、冒険して、成長するという経験ができるような物語と出会わせてあげられない。そのことに気づいて、自分もお話を語ってみようと、ストーリーテラーへの一歩をふみだしたのだった。

趣味とは?

 趣味とはなんだろう、と思って調べてみた。
  ー誰からも強制されず、自分の楽しみとしてする活動
  ーそれをすることで、リラックスできたり、リフレッシュできたりすること
  ー創造性を発揮する場。自分のアイデアや才能を表現する手段
  ー新しい知識やスキルを習得し、個人的な成長を達成する場
 ストーリーテリングも、語りの練習を通して自分自身の成長を感じられ、お話を聞いてもらうことで自己の創造性を表現して満足感を得る。その意味でストーリーテリングは立派な趣味だといえそうだ。
 だが、たとえば趣味でピアノを弾くのと、ピアニストという職業ではなにがちがうかのかを考えると、趣味のピアノは、上手下手に関わらず自分が楽しめればいいが、ピアニストは、本人の喜びはともかくも、聴衆を楽しませなくてはならないということだろう。
   趣味:本人の喜び>聴衆(観客)の喜び
   プロ:本人の喜び<聴衆(観客)の喜び

ストーリーテリングの喜びは子どもの成長

 ストーリーテリングが「お話を子どもとたのしむ」という目的を持ったとき、語り手本人の満足以上に大事なのは、聞き手である子どもが楽しめたかどうかではないだろうか。もちろん、プロのピアニストと同じような職業意識を持てというわけではないが、語り手本人の喜びよりも、聞く子どもの喜びが大きくなるような活動でなくては意味がない。
 聞いた子どもが、物語を体験することを通して成長し、その姿を見せてもらうことで語り手も喜びをもらう、そういう営みとしてのストーリーテリングでありたいと思う。
 やっぱりわたしはストーリーテリングは趣味だとは思えないし、趣味にはしたくない。そして、子どもにお話を語る人には、どうぞ、子どもに、本当の意味での喜びをもたらすようなお話を選んで、誠実に語ってあげてください、とお願いしたい。これはそのまま我が身への戒めでもあることは言うまでもないのだが。


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