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お話を子どもとたのしむ vol.8

きくことのおもみ

先日、NHKのETVの「こころの時代〜宗教・人生〜「”ほんとう”を探して」という番組を見ました。番組で取り上げられていた「民話再訪者」の小野和子さんは、宮城県のじっちゃやばっちゃたちに民話を語ってもらい、それを記録に残し、伝える活動を50年にわたって続けてこられた方です。さらに、2011年の大震災の当事者の方々に体験を語ってもらうことも、震災があったその年から現在まで続けていらっしゃいます。この番組を見て、じっちゃやばっちゃたちの語る「むかしむかし・・・」のお話も、今の時代の震災の体験談も、本質的には同じものだと感じました。
語ることで人は体験を浄化し、生き抜くための力を得ることができるし、そうやって語られた物語は、聞くものにとっても生きるための土台になってくれます。わたしたちの足元にはそのような土台文化があって、その上にようやく立っているのだということを忘れないようにしたいと、番組の中で小野さんがおっしゃっていたのが印象的でした。
もうひとつ印象的だったのが、「きくことのおもみ」ということです。
語るひとからいいものを引き出すには、聴くひとにも力がいるというのです。小野さんは番組の中で「そういう意味では、きくってことは、ひとつの、受動的ではありますけれど、戦いだと思うんですよ」ということばで「きくことのおもみ」を表現されていました。
このことは、ストーリーテリングをしていても常に感じることでした。おぼえたお話をただ語るだけのようでも、聞く人がうなずきながら全身で聞いてくれているときには、話が命をもったもののように自分から飛び出してきてくれるし、聞いているのか寝ているのかわからないようなときには、やたらに力を入れたり早口ですっとばしたり、という悲惨なことになってしまいます。
もちろん、小野さんは、ふつうに暮らしている田舎のおじさんやおばさんたちから、記憶のどこかに沈んでいるかもしれない民話を引き出すときの「聴く力」のことをおっしゃったのでした。でも、ひとが何かを語るときには、それを聞くひとがかならず必要だし、物語は、語るひとと聞くひとの両方がいなければ成り立たないという意味では、同じじゃないかと思うんです。
「きくことのおもみ」ということでいうと、最近読んだ『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ著 岩波現代文庫)でも似たようなことを感じました。この本は、著者が第二次世界大戦に従軍したロシア(当時はソビエト)の女性たちの体験を聞き取って書いたものです。証言者のところへ通い、お茶を飲んだり、髪型やレシピの話をしたりして何時間も過ごしたのち、ふっとその人の人生の一部のような大切な言葉が出てくる、それを全身を耳にして聴くーそのようにして書き取られた膨大な「女たちの戦争」の記録です。
小野和子さんも、栗駒山のばっちゃのところへ何度も通って、お茶をのみながら、16歳でお嫁に来たときにどんなに辛くて泣いたかという思い出話を聞き、また「猿の嫁ご」のような昔話もきかせてもらいました。
戦争の体験も、ばっちゃの話も、まがいものでない人生の物語です。それらの物語は、聴くひとがいなければ、そのひとの中にしまわれたまま消えてしまうはずのものでした。
わたしが子どもたちに語っている昔話も、こうして聴くひとのいてくれたおかげで今あるのだと感謝しつつ、自分もまた、ちゃんと聴くことのできる人でありたいと思ったのでした。


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