今晩24時に世界が終わるなら

今晩きっかり24時に世界が終わるとしたら、貴方は残り時間で何をしますか?と問われた。
ありきたりとは言え、暇潰しとして考えるにはまあ面白いかな、と思った。
しかし、少し考えてみて、べつに特別何かすることは思いつかなかったので、まあ私はそうだろうな、という諦めと納得がため息にもなれずに肺に溜まった。

この問いについて数人と意見交換を行ったのだが、残り時間の詳細なスケジューリングを行う人もいれば、家族や友人と話すという人、日記を書く人、食事をする人、寝る人もいた。
ああそうだ、冒頭では書き忘れたが、この問いは24時に世界が終わることは自分しか知らない、という前提条件のもとらしい。
また、世界が終わる、という表現の詳細については然程説明がなかったので、人類の滅亡か、はたまた地球の消滅、宇宙の消滅か、個々によって解釈が異なったようだった。
これについては面白いなと思った。
私は何かを遺そうという気が全く思い浮かんでいなかったので、掃除や記録のような行動は選択になかった。
しかし、私の消滅となればどうだろう。
自分だけが死ぬ時と、世界が消滅する時とで行動が変わる人は多いのだろうとは思う。
私は、私だけが消滅する時なら、掃除や記録をするだろうか。
掃除や記録…つまり、通常のところの言う生前の遺品整理と遺書にあたる行為だ。
世界が消滅するというのに、掃除をする、日記を書く、という行為を選んだ人たちの内心を、もっと聞いておけばよかった。

因みに、私が考えた消滅までの数時間の行動は、日が落ちる様を眺める、読みかけの本を読む、好きな音楽を聴く、月を見ながらお酒を飲む、などだった。
これと言って、終末に駆け込みでもやらないと気が済まないことも、未練も思い当たらなかった。
強いて言うなら、で何とかいくつかの行動を挙げたけど、日没や月を見ようと思ったのは、世界が消滅に近づいていく様を、視界の限りで一番大きな規模で見ていたいと思ったからだ。
寝る、という選択とは反対の方向性にあたるのかもしれない。
ある意味どちらも受容の姿勢ではあるけれど、消滅の間際でも好奇心を満たしたい、というのは私の中にあるのだろうなと思った。

世界の消滅の間際で好奇心を優先する、いや、それしか残らなかった私は、普段どう生きている?

好奇心の赴くままに生きている?違う。
では、普段律している好奇心が、消滅の間際に現れたのか?恐らく違う。
好奇心と一括りにしてしまったが、私が選択した行動は、さらに分類化できるだろう。
だって、ただ好奇心を満たすためならば、生涯一度もやったことのなかったことをやればいい。
例えば大きな犯罪。
効果の強い薬物は数時間で入手するなど、難しいこともあるけれど、殺人も強盗も器物破損も、やろうと思えばできるはずだ。
普段は未来と天秤にかけるからやらないだけ。
どうせ消滅するんだから、気に食わない奴を消したって富を得たって全部意味のないことだけれど、好奇心を満たすことはできる。
でも私はそれらを選ばなかった。
好奇心を満たす手段に、世界の観測を選んだ。
空を見上げるという、たったそれだけの、原始的な方法だけれど。
以前の記事でも通ずるものを書いたことがあったように思う。

綺麗なものだけを見ていたい。ただ空だけを眺めていたい。時々醜いものを見て、醜いと感じている自分を観察したい。

私は世界に何かをしたいんじゃない。
誰かに何をしたいでもされたいでもない。
ただ、世界を見ているだけで良かった?
うん。まあ、そうだね、そうかもしれない。
生き物としては自分は何と向いてないことか。
ああ、以前、生まれ変わったら何になりたい?と問われた時に、石か木、若しくは大気と答えていたのも、そうだね、筋が通るね。
何とかやっと絞り出した欲求が見ていたいってだけなんだから、これをしろあれをしろ、死ぬな、生きろと言われても、そりゃあ通じないわけだ。
だって、私の観測する世界に私は存在している必要はないんだから。
観測すると言っても、私は記録係になりたいわけではない。
私が望んでいるのは、カメラマンになることではなく、カメラになることなんだろう。
写真の中に、その写真を撮ったカメラが写っていないのは当然だ。
生きることはどうせ辛いのだから、だったら私は生き物じゃなくていい。
じゃなくていい、なんて言ったって変われるわけでなし、何の意味もないのだけど。

本当に。
なけなしの虚勢で、世界は薔薇だと言う気概も起きない。
ひたすら息を潜めて、いつか訪れる24時まで耐えるのみ。

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