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多様性は腫れ物じゃなくただそこにある景色

人は人を守るためなら残酷な鬼になる

10年くらい前、休日にショッピングモールを歩いていて、ベビーカーを押してる若いお父さんからササーッと距離をとられることがあった。ぶつからないように、ということなんだろうけど、「そこまでせんでもなぁ」と印象深かったことを覚えている。

それ自体は些細なことだったが、そのときにふと、「人は人を守るためなら容赦なく残酷になる」ということをめちゃくちゃ考えて、というか気づいた、に近くて。自分の痛みは限界があるが、他人の痛みはいくらでも青天井に想像だけはできるから、その分どこまでも残酷になれるというものだった。

それから数年が経って、「他人を守るためなら容赦のない人」と何人か出会った。一例では、守られる側の子は世にいうメンヘラなところもあり周りにも呆れられていたけど、その子を守ろうとするその人は、その子が責任を果たさない(ように見える)割に責任を押し付ける相手を厳しく攻撃していた。

また別の機会に別の人(女性)から、「女の子って守っちゃうんですよ、だって男は放っておいても平気じゃないですか」という話を聞かされ、モヤッとしたこともある。それまで考えたこともなかったが、放っておいても平気かどうかに性別は、というより属性は一切関係ないと俺は思っていたから。

仮想被害者を生む多様性の歪んだ解釈

そこで昨今よく聞く「多様性」。この言葉は端的に言えば「他人の価値観を認めましょう」というものだと理解してるが、これが非常にたちの悪い形で広まってるなと感じる。考えは好きだ、というよりむしろ、自分は世界各地の文化(価値観)を通して、それを伝えていきたい立場であるとすら考えてる。

しかし、たとえば最近、読売テレビの番組で、人の性別を聞いたインタビュー企画が問題化。取材を受けた本人が「不快ではなかった」「おもしろくするために自分も(胸を触るよう)促したところもある」と言い、それに対して番組のコメンテーターが「この方をLGBTの代表として見るのはよくない」と言っていた。こうなると、被害者は、どこかにいるのかもしれないが、第三者は想像するしかない。終わりの見えない文字通りの炎上だ。スルーしようねとまでは言わないけど、これはどこまでいくんだ、二次人災三次人災につながるぞ、と。

冒頭の「守るためなら他人の痛みを青天井に想像するのでどこまでも残酷になる」はまだ実際に相手がいる分救いがあるが、その相手がいないともなるとかなりまずい。痛い痛くないも言ったもん勝ち(勝ち?)になるからだ。犯人はこの中にいる!ではなく、被害者はこの中にいる!と言うようなもの。

繰り返し言うが、自分は多様性を積極的に進めたい人間だ。しかし、くだんの一件で、この取材を受けた人の気持ちを〜と言いながら、本人が不快じゃなかったと聞いた途端にこの人はLGBT代表でなく〜と言い出したら、もう半分は茶番じゃないだろうか。無論、それを同一人物が語ってる訳ではないことは分かるが、番組というくくりでは同一に等しい。

多様性は腫れ物ではなくただそこにある景色

間違いなく確かだと思うことは、多様性を本当に認めようと思うなら、「多様性を侵害しているぞ!」と腫れ物に見立てるのではなく、「これも多様性だねぇ」と世に出していくことだ。この件について怒ってる人は、どれだけふだんから多様性、つまり未知の価値観に触れている?この件以外では意識もせず、もし怒ってるだけなら、それはダブルスタンダードだからな。はけ口には使うなよ。一貫性持てよ。

ただ、正直なところ、この多様性に対して多様性という言葉を持たせること自体が、どうなんだろうと自分は思っている。言葉は入れ物であり、人で言えば魂ではなく体だ。意味を狭め、またファッションにもなる。そもそも世界的に広まってると言いながら、日本語に変換している時点でズレは必ずある。

何があるか分からないという意味では、既知ではなく未知だ。その意味で、知った気になって使うこと自体がおかしい。ましてや人を攻撃するためにだなんて。繰り返すが、ただそこにある景色だ。ぎゃあぎゃあ言うものじゃないんだ、ヒステリックすぎると、かえって人と人との分断を引き起こして、そのうちマジで別のトピックで戦争になっちゃうよ。

あ、だから画像がT2(ターミネーター2)です。

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ネルソン水嶋
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