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"日本人と会わない"という謎ステータス

日本人と会わないから

というワードをベトナムに行ってから8年近く、何度も耳にしてきた(ほかの国でも)。人が人のことを評するのはそりゃそうなんだろうとして、自分自身で言う人を見ているとたまに「ステータスだと思ってる」と思う節がある。そこから手が付けられない批判がはじまって、その国の人たち、つまりローカルの生活に身を置いてるぞと言いたいがために、逆に日本人同士で集まる日本人を下げて見ている。

たいていそのときは「群れる」ことに対する、大きなくくりでの同族嫌悪だと受け取ってるんだけど、それって単に言語の問題だと思うんだよな。ベトナム人だって中国人だって韓国人だって、ネパール人だってブラジル人だって、世界のどこでも一定数集まればコミュニティは形成される。一方で英語圏出身者がそうならない(なりづらい)のは、そもそも言語の汎用性が世界一高いからだろうし。

その人が思う、「溶け込んでいる」と考えているローカル世界にいるひとびとだって異国においては群れるのよ。そう思うと、すべての日本人に偏見を持っているか、実在する日本人の友達をその「日本人」に含めていないだけなんだと思う。つまり何が言いたいというと、そこ分ける必要ある?という。

「日本人が…」という論調が最近本当に増えたな。とくに海外在住者に多い。このままではダメだぞ、ということの裏返しだと思うけど、そのつづきは「どうしたらよいか」という建設的な話だったり、なにかしら得るものがあってほしい。むしろ、それがあるかないかで言葉の価値はまったく違う。批判したところで、その人の溜飲が下がって終わりだ。

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ネルソン水嶋
ぜんぶうまい棒につぎこみます