今日の思想 2022/06/23

日記

木曜。
8:25に起床。昨日も早く寝ようと思って1時にはベッドに入っていたんだけど、7時間寝れば気が済むのかというとやはりそういうわけではないらしい。週の中で日を重ねるにあたってどんどんダメージが蓄積されて行って起きられないようになっていく? 早く寝たのに早く起きられないと損した気分になるので、きちんと等価交換であってほしい。
ごみ捨てにはぎりぎり間に合う。暑くなっていく中で燃えるごみを月曜まで置いておくわけにはいかない。

今日も仕事。10時からのミーティングは参加者が少なく、半分雑談の場のようになる。コロナ禍で在宅勤務が主になり、リアルでは全く顔を合わせないまま仕事をしているので、人となりを殆ど知らない同士の同僚。
今度新しくマネージャーになる先輩はオーガニック志向や食糧危機への興味から最近農業を始めて、北陸にも部屋を借りて二重生活を送っているらしい。結局第一次産業が一番強いですよね〜という話をする。第三次産業の営業職なんてマジで何も生み出していないと常々思っている。脱サラして農業とか、リタイアして田舎に移住とかを望む人が多いのはそういう理由なんだろうなと思っている。右から左に移してその手間賃をいただく下賤な職業です。
後輩くんは身体を鍛えるためにジムに通っていて、今日も早起きして朝の始業前にジムに行ってきたと言っていた。なんだそれ。それはシンプルに意味わからん。
「何か運動とかやってないの?」と訊かれ、「一切合切の運動と全くの無縁で生きてきました」と返すと、「あ〜でも音の人だもんね」と言われる。昔バンドをやっていたという話をしたのを覚えていてくれたらしく、よく他人にそんなに興味が持てるなと感心する。ていうか音の人って。詩的な表現でかっこいいな。そして最近は音の人でもない。何の人でもない。でも場に合わせて「最近電子ピアノ買ったんですよ〜」とかいう話をしてしまう。すごいねーとか言われるが、買うだけなら誰でもできるので……農業やってる方がよっぽどすげぇだろ……と思いつつ上辺だけの話をする。俺が電子ピアノ買った話、本当に聞きたいか???

お昼はバーガーキングを買いに行く。買いに行く途中でiPhoneのアプリからピックアップオーダーをすると、注文から会計まで全て済ませてあとは受け取るだけという状態で店に行くことができる。やたら便利だなと思うが、店に入ってきてレジカウンターには行かず、ただぼんやりと立っている姿は滑稽だし恐怖だなと思う。
ハンバーガーを持って帰り道を歩いていると幼稚園のお帰りの時間帯だったらしく数台の幼稚園バスを目にする。可愛いイラストが描いてあったりバス全体が宇宙船のようなデザインになっていたりで愉快だなと思う。自分がどんな幼稚園バスに乗って通園していたのか忘れてしまった。
参院選のポスター掲示板にちらほらと候補者のポスターが貼られ始めていて、その中に生稲(いくいな)さんという名前を目にする。生稲さんのメールアドレスには絶対に1917と入っていると思う。数字で置き換えられる名前が羨ましい。3110(サイトウ)とか。おれも数字で置き換えられる名前がよかったな。
外は湿度が高く蒸し暑く、帰ってくる頃にはじっとりと汗ばんでいるぐらいだった。宗教上の理由でウーバーイーツは使わないことにしているのだけれど、なるほどその宗教を捨てればこの面倒を金で人に押し付けることができるのか……と思う。弱いものたちが夕暮れ。さらに弱いものを叩く。

午後もだらだらと仕事。前回の反省を活かして次にどうするかという会議をする。結局何をしても怒られるのであれば多少でもマシな怒られ方にしようと話す。会議中に良い報せがあり、よかったよかったとなる。
その後何か知らんが気付いたら20時で、それでもまだどんどん仕事が舞い込んでくるので、嫌気がさして閉店。誰もが誰かに金でパシリをさせられている。

野球やってた人の自己肯定感なんなの

成功体験がない。何かを成し遂げたという経験がない。何かを全力で頑張ったという経験もないまま32歳になってしまった。自慢できることが何もない。
スポーツをやっていた人は自己肯定感が高いと思う。特に野球をやっていた人。きつい練習を乗り越えた、全力を尽くしたという経験が自信に繋がっているのだと思う。
ただ、野球を全力で頑張って、今ここにいてサラリーマンをしているということは、その頑張りは何も実を結ばなかったんですよね? と思ってしまう。「学生時代は野球部で辛い練習を全力で頑張りました」でも甲子園には行けなかったんですよね。「甲子園に出場しました」でもプロにはなれなかったんですよね。いや、下手したらプロでも一軍じゃないかもしれないし、4番ではないかもしれないし。メジャーには行けないかもしれないし。「野球を頑張りました」で自信と自己肯定感を得ていいの、イチローや大谷翔平ぐらいじゃないのか?
イチャモンである自覚はあるし、例に漏れず野球に詳しくないまま書いていますが。甲子園出場も十分にすごいし、もっとすごい選手とかたくさんいるんだろうとは思いますが。でも「学生時代は野球をやっていました」というサラリーマンのおじさんが、その経験から自己肯定感を得ているのは理屈がわからん。どこが到達点なの? やり切った、という感覚が大事なのか?
理想が高く、上ばかり見てしまう質なんだろうなーとは思う。俺よりすごいやつはいくらでもいる。相対的に自分のいる場所は低くなる。自己肯定感が低いから理想が高いのか、理想が高いから自己肯定感が低いのかはわからない。
インターネットの発達でいくらでも自分よりすごいやつを見つけることができる。だから皆自分らしさとか自分だけのものとかに躍起になるのかもしれない。しかしその自分らしさも、君よりももっと君らしい人がいくらでもいる。
「自分は何者かになれる」という夢から覚めて、凡庸なつまらない存在であるということを受け入れてから、長い長い人生が始まる。

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