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過去の自分に慰められたくて。

東京駅に初めて行ったのはいつだったか。多分記憶がないくらい昔。

記憶にあるのは、家族で祖母に会いに新幹線を使うためとおった中学生の時。

そのあとが中学校の修学旅行。

その後も何度もとおって来たけれども正面から見たのは大学生の時かもしれない。

好きだった先輩と2人で都内を歩いた日。

子どもの時はずっと不安に駆られていた。生きていることが不安で、死ぬことが不安だった。将来が、テストが、部活の大会が。

幸せを感じると同時にその幸せが壊れるのが怖くて不安に襲われる。それは今も変わっていない。

なんとか目の前に薄らと引かれていたレールを手繰り寄せてギリギリのところで大学に進学した。

周りには未来に希望を持ちキラキラと今を楽しむ先輩や同期がいた。

生きるのが下手なわたしはすでにボロボロだった。

レールから外れないために必死だった。

努力でどうにかなるなら、なんとしてでも努力をして辿り着かなければならないと思った。

意識の高い集団に囲まれていたら自分も成長できるような気がして身を投じた。

可愛い先輩に声をかけられたから決断したのは秘密の話。

意識の高い集団の中に身を置いて、お金に余裕が出たら自己啓発本を読んで、ベンチャー企業でインターンをする生活は楽しいように錯覚していた。

生活のため眠気と闘いながら生徒のためにならない家庭教師のバイトと、ギリギリまで節約した人に言うのも憚られるほどの食生活という負の面には見て見ぬ振りした。

ボランティアとかもしてみた。学生にできることなんてたかが知れていて、所詮自己満足の世界だってわかった。

意識高いと揶揄される行動も自己満足。

社会貢献も自己満足。

突き詰めたら自分のためにすることも他人のためにすることも自己満足だ。

つまり自分が満足していれば、他人からどう思われようと、他人と比較して自分が劣ったように見えていても関係ない。

道徳だとか倫理だとか。法律違反はダメだけど。法による裁きを甘んじて受けるなら、それで自己満足に浸れるなら、その行為への抑止力なんてない。

意識の高い、無理をした生活は次第にガタがきて、体がもたなくなって、全部捨て去って怠惰な日々を過ごすようになった。

意識高いことをしても、何者にもなれない人がほとんどだと思った。

ギリギリのところで進級を続け、ギリギリのところで卒業する頃には世界がウイルスによって変わっていた。

社会人になって数年が経つ。

気づけば東京駅はよく見る場所になっていた。

通る場所であれば、買い物をする場所でもあるし、友や同僚と会う場所でもある。

気がついたら子どもの時、特別だった場所は自分にとっての行動範囲の内側になっていた。

何者かになりたかったわけじゃないけど、将来が不安で何者かにならないといけない気がして、心と体が悲鳴をあげて、堕落しても生きていればいいって思った。しかし、レールから降りるのは怖くてしがみついた。

気がつけば無理をしながら通ったインターンの経験を糧にして、意識の高い先輩から得た情報を活用し、大手と言われる企業に就職していた。

コロナ世代。リモートワーカー。会社員。

〇〇大学卒業の××企業に所属する会社員になっていた。

趣味は読書と映画鑑賞ですって言ってみる。

好きな食べ物はアイスクリームって言ってみる。

好きな人は手の届かない人なんですってネタにできる。

こんな人間です。

まだ未成年で課題に追われ将来に不安を感じる君はわたしを見て何を思う?

成人して、仕事をして、休日に友と遊んで、酒を飲んで失敗をする、そんなありきたりな大人になった

レールから下りなかったから、生活水準は人と比べると高い方かもしれない。

一つだけ言えるのは過去の自分にどう思われるか気になるくらいには現状でいいのか不安だ。

人間は、いや、わたしという人間は生きている以上不安から逃れられないようで。

わたしは今、元気だったころ、無茶をしていたころを思い出して、もう一度、意識の高い生活をしようとしている。

ねえ、君は何を思う?


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