いろいろ10年⑥|人を亡くすってこと


夏の放火事件があった時に書いたやつです。はっきりさせておくと父が事件の被害者ではなく、あの方々と同じ方法で亡くなり周りのあれこれをみてると、当時いろんなことを考えずにいられなかったという内容です。私の人生で最も辛かったことの一つだし、抜かしたくないと冷静になってもう少し書き加えました。

そして父が9年前に亡くなった時、親が自分で死んでしまったなんて人の話を全くみないのが、誰もわかってくれないようで辛かったというのもこれを一般公開で書き留めたい一つの理由です。家族がそうやって亡くなって残された家族はいろんな目でみられるもんな。こうやって書いてもかわいそ自慢?って言う人は絶対いるもんな。わざわざそれをいってどうなるのって言われそうで怖かったっていうのもある。そら誰も話さないし、話せないよなと。
どうなるかといえばほんの少しでも今生きてる側が死にたくなる気持ちが軽くなります、というのが父が亡くなってからいろいろなことをみてきて感じた個人的な気持ち。それ以上でも以下でもない。
私は長年自分のせいで親父殿がなくなったと思ってたし、なかなか乗り越えられなくて「こうやって考える自分はダメな奴なんだ」となってた。そうでもないかなって思えるようになるまで本当に時間がかかった。
もし9年前の私のような立場の人がいて、気持ちがぐるぐるしていて、その感情をどうしたらいいのかとか何をしたらいいのかわからないという人がいたら、私なんかじゃ何もできないけど、何かを思うきっかけになるかもしれない。大海に手紙入り瓶を投げる気持ちです。

ということで人の死の話です。どうやって亡くなったかというのも書いています。人によってはトラウマになりかえねんので、読んだあとに気持ち悪くなったとか言われても困ります…といっておきます。読むのは自己責任でお願いします。



19歳の時、私の父は自分で人生を終える時を選んだ。
何があったかいわないときっとさっぱりなので書くけど、どんな風になくなったとか書いてるのでほんと無理に読まなくていいです。

私は家族の中で一番親父殿とは仲が良くて、日本にいることはいつも二人で出かけてた。ツーリング行ったり、博物館にいって語り合ったり、桜をみにいったり。高校生でも普通に恋人のように手をつないでた(今思えばうーんそれは親として問題とはかなり思う)(バウンダリーをもて)私はうちの親が仲がいいのが自慢で、二人が並んで歩くのを見るのが好きだった。何があっても困ったときは親父殿に相談してた。

そんなころ父方のみなさんがそーk学会の人で親父殿もかかわりがあるときいて、うぇへぇ!!?となる。まじか…定期的にうちにきて、ゆきさん(お犬様)のこと乱暴に抱き上げて、ぎゃん!!!!!!と泣かせてから、許せん…なんやこのおっさんたち…と思ってたけど…あれだけ尊敬してた親父殿言葉が親父殿の言葉なのか、彼らの言葉なのかわからなくて距離を置くようになってしまった(このそーk学会の話はあとでオチ有)このころ、たまに険悪になる父と母の会話を姉たちがいないので私一人でなんとかするということが何度もあった。

そして19歳、アメリカの生活にもまださほど慣れてない頃、東日本大震災の直後で私は遠いアメリカにいても結構気がめいっていた気がする。たくさんの方がなくなったのがニュースで見るたび、ツイッターのお友達が心配で仕方なくて、必死に怖いのを紛らわすぽぽぽぽーんの画像がTLに流れてた日々。ついったのエイプリルフール祭りが過ぎた数日後に、昨日の晩御飯に残りの手羽先たべてたら、いきなり親父殿から電話があって
「好きな人ができたからお母さんと離婚することになりました。その人とは一年以上付き合ってます。君たちの親権はお母さんです」
ときた。

あほかい。一年以上前って私まだ高校におるときやんけボケ。あほ。お母さんと穏やかに話してた日々はなんやったんや。私は「エイプリルフールは過ぎてんよ!!!???」とぶっちぎれて大泣きして会話にならんので、親父殿が「また、かけるね」と電話を切って、結果それが最後になりました。

私と2番目の姉は知らなかったけど、ふたりは数か月別居をしてた(どおりで電話した時「あっお母さんおる?」ときいても忙しいっていわれるわけですよ)まさかの一番上の姉は知っていて、事情聴いたんなら二度と電話するなという。父親なんて存在はいないと思えという。私としたらいや でも えっ 許せんけど、でも、離婚ってなっても家庭内暴力とか身の安全云々の問題がなくて、双方合意してれば定期的にあえるんじゃないの?あれっ とするっと受け入れられるわけもなく。(今思えば会うなというのはむちゃくちゃわかります)19歳の数時間前まで父と仲良かった脳みそにはすぐには処理しずらい情報。その後数日間いろいろありまして「離婚しても親父殿は親父殿なのでたまにでも会いたいです」という結論に。キレてはいた。ただそれが私の時間の夜中だったので明日のあさ電話しよと思ったわけです。

それで次の朝に母から「お父さんがなくなったので帰ってきて」という電話。は????????????????????ど、どうい???はい????メールをみたら「いつも笑顔でおってね」というメールが親父殿から数時間前にきてます。何があったかも言われないまま、急いで帰国。シャダイのお友達は覚えてるかもしれないです。何も知らされてなくて、飛び降りたんかくびか…薬なんか…とよくわからないままに脳内で変なイメージだらけです。文字にしてるけど、当時はげろげろに大泣きしながら吐いてます。からだとかあるもんなんかな...と家に着くと、ない。
「お、おとうさんの体はないんやね…?」
「警察が歯形鑑定してるの…」
見た目で、お父さんだと...わからないということでしょうか...ほんとよくわかんないです。憔悴しきってる母は完全にどうやって亡くなったかいうのを忘れてたので「どうやって…やったんかな…」ときくと、ごめんねごめんねとあやまってました。おかあさんがあやまることはないやろうに。聞くところによると、人気がない海辺で一人でガソリンかぶって…というのだった。たまたま釣りに来た人が人が燃えていると通報したらしい。ほんと書いててよくわかんないです。メール以外遺書らしいものはなかったので、どうしてこうなったのかはまったくわからないまま。クソ浮気女はお葬式に来なかった。(相手だけを責めてるのではなく、双方父が既婚者子持ち理解の上だったので、父もお相手も愚図です)

もうそこからいろいろありすぎてかなにがったかは覚えてない。なんなさんの、仏壇?の座布団にすわりまくるせいで、まっしろな白猫のそらつんが一時期桜色の猫ちゃんになってたのぐらいです。かわいかった。いろんな方にかまっていただいて、遊んで元気づけていただいたのに、ほんんんとうにもうしわけないですが、覚えてないことが多いです。思い出したくないってことなんやろうなと深く考えないでおきたい。

覚えてるのは、もうずっと私があのとき電話してればこんなことにならんかったんか????って気持ちでいっぱいやったこと。母の言うことは聞かなくても、私のいうこと聞くという我が家の暗黙の了解だったので、私がもっとはなしてればよかったんか?とか。距離を置いてた理由の信仰に関しても、S学会のは真面目でもなんでもなく親戚が入れと面倒くさいから名前だけではいはいと聞いてるだけだったよとあとからきいて、もう最悪です。私の勘違いです。変に維持はらずもっと話してればよかったんかとか、私が夢であったアメリカで勉強するってことを選ばなければ父と母の関係はなんとかできたんかなとか責めるしかできなくて、私が親父殿を殺したんやって気持ちが長年つづきました。結果を言うといまはそうじゃないなって思うんですけど、そこまで7年ぐらいかかりました。

さらに個人的に状況を悪くしたと思うのは、体をみてないってこと。警察で母だけが確認して体を見てるので、私は体が包まれた白い布しか見てない。母の立場からすれば当然やったとおもう。ただみてないせいで、あれが親父殿やったんか????という気がして、いなくなったというのが受け入れられない。というかよくわからない。私は親父殿はどこかで生きてるのかも、そんなわけない、でも…と普通になくなって4,5年は考えてた。普通に 。ほんと普通に。トーチウッドも身元わからないからだ云々っていうやん。映画でもスパイの死を偽装して一般の家族には死んだと思わせてとかあるやん。そんな可能性もあるやん。って思考。大まじめだった。

何度も何度もいろんな人がせとのせいじゃないよ、親の決めたことっていうのはね、子供が責任感じるものじゃないんだよと言ってくれる人もいました。それでもね納得いかないんです。そう思えないんです。自分のしなかった行動が誰かの死に直結したかもしれないというのは考えても仕方ないといえば簡単だけど、そう簡単にあ~~~~そうか~~~とは思えません。自分の親を死なせたんだから、せめてなにか貢献する人にならないと自分はごみみたいな考えでいっぱいです。だからなにかつくりたいというのがあった。作ることが楽しいってよりも作らなくてはならないという「止まってなにもしなければ私の価値は消える」みたいな感覚で一生懸命だった気がします。生き急いでるよってよく言われましたが、まあそうやったんやろうなと思います。他人から見れば大げさなのかもしれないです。でもほんとそれ以外考えられないんです。
あんだけ元気ふけておいて、こんなこと考えてたんかいって思われる方もいるかもです。本当にもうしわけないです。でもお話するたびに元気をもらっていたのは確かです。何度も何度もグルぐるするたびに話を聞いてくれることがどれだけ救いだったかと、おま思っても感謝しきれないです。
あの当時、話さないと心が死んじゃうなって何度も思った。心どころか自分が死んだほうがマシなのではとは定期的に思ってた。家族とは話さないから余計に。家族とは8年たっても一度もまともに親父殿の話をしてない。まるで存在してなかったみたいに。母とは最初の頃はよくしてたけど、最近もちょっとする。母も当時「せとにしか話せない」といっていた。話して考えても解決しない。黙ってろというタイプである。
それで心の整理がつく人もいるんだろうと思う。つらくても笑っていれば大丈夫だとか、考えなければつらくないとか。私はそうはなれなかったし、そうしろとか言われるたびに、いきなり親が死んだのにそれを悲しいと思う自分が悪いのかと苦しくて仕方なかった。
悲しさを理由に何もしてなかった訳ではなかったと思う。アメリカでの留学を始めた半年後で、それからも本当に駆け回って一生懸命勉強した。頑張って頑張ってそれでもつらくてへぼると、家族からすごい怒られてた。悲しいですって様子が見てて腹が立つと言われても、
悲しいんでしかたないですよね!!!!????
→ならかかわらないでください
→(関わらない)
→たまには頼れと言われる
→え、じゃあ相談...
→自分だけが大変だと思うな腹立つ
ルートなので、もう無理です。なんなんだこいつら.... そんな周りの中、お友達の存在がそれだけ貴重だったか…
話すってホントに大事だなっておもった。つらい気持ちの中には解決策があるものがあれば、ないものもある。ただただ聞いてほしいとヘルプを出すってすごく大事で、それを聞いてくれるっていうのが一番の助けだった。

時間が癒してくれるとか時間は何もしてくれない。なんの救いにもなんない。何年たったのに悲しみ続けるの?じゃない。何年たってもその人がいないってことなんだとおもう。
親父殿の話は何年たってもできなくて、いろいろつらいもう無理って死にそうってなったとき学校のカウンセラーを紹介されて、彼女が

「あなたはあなたが生き続ける限り、その故人を亡くし続ける。その日亡くしたからハイ終わり。じゃないんだよ。その人と過ごせた日々が奪われた。毎日毎日その人といきていけたかもしれない未来がもうないんだよ。いつまでも悲しくて当然で、それをもう何年たったから悲しむななんていえないんだよ」

といっていた。そこでやっと、そうだよね、仕方ねーわって気持ちになれるようになった気がする。

こういう経験した被害者はきっとやさしくなれるという文字を見た。ふざけんなあほ。大激怒して手が震えてた。所詮他人事だから言える言葉だと思う。家族を亡くした方々や大けがをされた方々の気持ちの代弁なんておごがましくてできない。身元確認しなくちゃいけないレベルで大切な人を亡くすっていうのも、その現場にいあわすっていうのもほんtttttっと世界を呪って当然じゃないかと思う。私はいろんなものが苦手になった。苦しくてできないことが増えた。だれのせいでもないのに許せないって気持ちだった。

死って文字見るだけふらふらしたのでミュートにした。いまだにじさ というのがつらい。心臓がぐっとくる。その言葉考えてるやんっておもうけど、実際に打つのは違う。無理。

しばらく電話来るたびに誰かが死んだって言われるんじゃないかと思って怖かった。飛び上がってた。数年後、そらつんが急死したって電話きたせいでこれは悪化した。お友達とも何時に話しましょうって約束をしないと軽いパニックになっちゃうレベルだった。パさん(夫)と出会って連絡をよくするという行為になれてきてやっと克服した気がする。

お肉が食べれなくなった。焼肉とかまじ勘弁。なんでって聞かれても答えるわけにもいかないので、ただすきじゃないから…というと「ベジタリアン?」となる。私が魚食べるの見てるやん…
パさんと楽しくご飯を食べるようになってから最近食べるようになった。さほど好きではないけど食べれないわけじゃない。 なくなって7年後の話である。

髪が切れなくなった。最後に親父殿との会話が「いってらっしゃい」で頭をなでてくれたのが最後だったので、親父殿が触れた場所として切れなかった。髪を切ろう、髪伸ばしてても親父殿はかえってこない、誰かが最後に触れたものではなくて自分の体として短くしたいなと思えたのは4年後だった。髪を切るなんて、ささやかなことなんだけど、私にとっては大きなことで、本当に切れなかった。今じゃ毎月バリカンで剃ってるの思うと、いや~~~~そういえばそうでしたわという気持ちだけど、当時の私にとっては本当に大きなことだったと思う。

家族を見るのが苦痛で仕方なかった。誰のせいでもないのに、父親がいるってだけで外で見かける他人の家族を見るのが苦痛で仕方なかったし、妬ましい気持ちだった。そんな風におもわなくなったのは何年も後だった気がする。今は他人の親を見て、親父殿を思うことも減った。ついでにパさんのパパが娘が増えた!!!ってむっちゃ可愛がってくれる。スーパーに甘やかしてくれて大切にしてくれる。パさんはうちの両親は僕たち(パさんと妹)よりベイが1番好きといっている。それはないが、本当に大切に愛してくれている。またお父さんが持てる日が来るなんてなあとうれしかった。

離婚云々がうやむやになって、パートナーを持つってことも、誰を愛するというのも信じられなくなった。あれだけ仲良くしてた親が浮気手で離婚する!!!???あれ全部嘘なん?なら好きってなんやねんっていうがっかりである。そのころあったハラスメントのせいで触られるのがトラウマになって、わーい!とお友達とはぐするのはよかったけど、なんかこう対象としてみられて扱われるのも気持ち悪くて仕方なかった。うげえええ。違う人生を歩んできた他人を信用して、基本一緒に行動して同じ家で暮らすとか理解できない。想像するだけで気が狂いそうって思ってた。いま、毎日一緒にいて楽しいパさん奇跡だなあ…パさんといると愛しいきもちいっぱいで、とにかく幸せにしたいと思うし、パさんと過ごせる一瞬がとても大切だと感じる。

(パさん自慢じゃねえかってかんじですか、ええまあ、そうなんですけど)
こういう苦しい気持ちになって、あたらめて、この気持ちが関係ない誰かを傷つける口実にはならないなって思った。
誰かを傷つけるつもりなんてないからこそ、自分の気持ちを整理するのにどれだけ時間がかかっても責めないでほしいと思った。
つらい時こそハッピーでいなきゃ!スマイルスマイル!とか言わないでほしかった。いつかは悲しいなんて思わなくなるよって言葉も冷水を浴びるようなかんじだった。

今思うとこういうので救われたなあってことがいっぱいある。
大好きな趣味があって、オタクでほんと良かったとおもった。ついったなかったら生きてないと思う。
好きなものがあって、楽しいってきもちを忘れずにいられて、話すお友達がいたって本当に大きかったと思う。ただでさえ私のせいやったんかって考えでいっぱいで、楽しい思いをしてもいいんだろうかという時に、TLでいろんな人と推しがかわいい~~~~~~~って言える喜びといったらよ。ほんと尊い気持ちよ。毎度マイナーなんですけど。
ポジティブな気持ちは推しがくれた。推しが存在してくれて、それのかわいさを共有できる人たちがいてくれて本当によかった。

そして私はパさんに出会って人生が変わって、毎日ありがとう、幸せだなあ楽しいなあと思うけど、幸せになるのにはパートナーを持つのが一番って話じゃないと思う。パさんと会ったのが親父殿がなくなってもう7年たってたから、じゃないと思う。
好きだという趣味があって、話をきいてくれて、いろんな素敵なものみて、日常のささやかな喜びを共有して、いろんな話をするからだとおもう。そうやっていろんな「怖い」をなくしてくれたんたとおもう。それがたまたま人生を生きたいなと思う人になったというか~~~う~~ん 
なにがいいたいのか、う~~ん

たぶん苦しい気持ちを癒すのは時間じゃなくて、人なんだといいたいんだと思う。

不幸自慢っていわれるのも怖かったし、言葉にするのも怖くて話してこなかったことがたくさんあった。
自分の親が自分で火をつけて死んでしまったって、このむなしさも悲しさもだれがわかるんだろうかという考えがすごく大きかった。でも、わかんないでいいんだ。こんな悲しい気持ちを知らないままでいてほしいと願えるようになったのは本当に最近だと思う。

一部の人はなにか苦しかったことをいうと不幸自慢という。そう思うのは勝手だけどだからといって、苦しんでるひとに見苦しいからだまれというのは間違ってると思う。
言葉にしないと頭がぐるぐるしてどんどんどんどん重くなる。
言葉にするたび、なにかがほろほろ落ちていって軽くなって、しばらくしたらふっと苦しい重さがかえってくる。
その繰り返しで、どこかにたどり着くかもしれないし、ずっと繰り返しなのかもしれない。
それでいいし、悪いことでも、情けないことでもない。
ただそのぐるぐるした気持ちを責めるひとが減ってくれればいいなと思う。
本当に苦しい時、いつかは乗り越えて楽になれるかもという希望さえも苦しい。その希望なんて感じられないから。いつかが遠すぎて辛いから。
そのことをわかってほしいと思う。じゃあどうせいちゅうねんというと、そうかあって話を聞くだけで、ぐるぐるしてるひとのぐるぐるはゆっくりになるかもしれない。
ぐるぐるを話す機会を奪わないでほしい。
奪われれば奪われるほどただただぐるぐるが深くなる。深くなりすぎたぐるぐるはマグマに到達しちゃって噴火しちゃう。

私はぐるぐる回って、いろんな人がそれでええんやでって何度もきいてくれて、いっぱいいっぱい考えて、今は生きてる人の気持ちが一番大事だなという考えにたどり着いた気がする。そう思って「生きてる私はどうしたいか」とやっと自分のために「なにかをする」って気持ちになれたと思う。

私は精神学に詳しいわけでもなく、カウンセラーでもないので私がいってることが正しいというのは絶対にないです。誰かの答えは私が良いと思える答えではなくて、私の答えが誰かの答えではなく、私にしかすっきりはまらない答えかもしれない。
ただこう、ふわっておもうのが、後悔だらけの過去はもうかみ砕きに砕いたので、そのかけら抱えながら、いま生きるってだいじだなあと。


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