雨の日の夕暮れ

 3月の下旬は、時折氷雨いたく降る日あり。

 関口智花は昇降口にひとり佇めり。をやみなく降りしきる雨をうち眺めつつ、わびしげなる面持ちなせり。昇降口の右隅なる傘立てのところに行きて、傘の黒、紺、半透明ビニールなど6, 7本まばらに残れるを、ひとつひとつ手に取りつつ、目をこらしけれど、やがて手を止めて「はあぁ……」と力なくため息をつきぬ。

(やつぱり自分の傘がない……。)

 吹奏楽部の練習果ててのち、音楽室より出でけり。楽器を片付けて、ロッカーよりウールの黒コートと、緋色のマフラー取り出し身にまとひ、日ごろのやうに同級生・後輩と連れ立ちて、この日の練習のありさまや、春休みの宿題の進捗いかんを相語らひつつ廊下を歩きけるが、うちつけに入学式に演奏する曲の楽譜1冊を置き忘れたることを思い出しぬ。あなや楽譜を置き忘れつる、さらばまた明日と、かたへなる人々にうち笑まひ別れを告げ、急ぎ職員室に走り、顧問より鍵を受けて、音楽室に戻り来たれり。果たして楽譜は、彼が座りける椅子の近くに置いたりけり。かくも大切なるものを置き忘るる、いと心無きわざかなと恥づかしう思ひけれども、目当てのものを回収しつれば心安く思ひけり。楽譜をねんごろに抱きて、鍵もて戸を差し込むるより、しづまれる廊下を急ぎ渡りて、職員室に鍵を返し、再び昇降口へ戻り来たれり。

 いでや帰りなんとて、登校の時に携へし彼が紺色の傘を探すに、傘立てにその姿なし。目をこらして一本一本手に取りて調べけれど、いづれも彼のものにあらず。似たる傘あまたありければ、他の生徒、わがものと誤りて取りてけん。降る雨の激しきに、傘なくはいかにかしのがん。いと便なきことかなと困じにけり。みそかに人の傘を借りてこの雨をしのがんとも思ひけれど、断りなく人のものを持ち出さんは、彼が方正なる良心の厳しく咎むるところなり。昇降口の上の壁に懸かれる時計は、はや5時12分を指せり。日は暮れて、昇降口の外は夜闇に染まれり。人ひとりなき昇降口には、湿り気帯びたる冷気、外よりひんやりと流れ込みて、雨の音のみぞざあざあ響きわたりける。この雨は、何分、何時間待たんとも、をさまることあらじ。このまま雨宿りせんには、さながら夜にもなりなん。もはや術なし、道路挟みて校門の向ひ側なるファミマに駆け込み、ビニール傘買ふまでの辛抱と思ひて、右手にスクールバッグ抱へつつ、雨降りしきる戸外に飛び出したり。

 氷のやうに冷たき雨は、関口が顔をひしひしと打ちけり。ぢつと念じつつ、校門目指してひた走りけり。

「あのう、すみません」
 後ろより人の声あり。つと立ち止まりて返り見すれば、男子高校生の、長身端整にしてにび色のダッフルコートまとへるが、ビニール傘さしつつ、関口の方へ歩み寄りけり。彼はそのビニール傘を、やをら関口の前に差し出(いだ)し、につこり微笑みつつ、
「もしよかつたら、これ使つてください」
 まとへるコートに雨粒が染みゆくも、つゆも顧みるそぶりなし。
 関口はあまりあさましうて、目を大きく見開きて、1~2秒ほど静止しけれど、両手を横に振り、戸惑ひの笑み浮かべつつ
「いえいえそんな、雨に濡れてしまふぢやないですか?」
「いや全然大丈夫なんでこつちは、どうか使つてください」
 男子は、額に雨粒がにじむも苦しともせで、爽やかに勧めけれど、関口は固く辞して、
「いやそんな、あなたが濡れるのにお借りするなんてできません、お気持ちだけで十分です、ありがたうございます」
 ゆきずりの我に傘を貸さんとの心ばへは、かたじけなく思へども、我がために人の濡るるを見んは、関口が心には忍び難きことなりけり。
男子は、情け深き面持ちをたたへつつ、関口が右手を取りて、ビニール傘の白き柄をその手にギュッと握らせて、
「それぢや、夜道はお気を付けて!」
と言ひ残して、校門の方へと走り去にけり。

「えっ、でもどうやつてお返しすれば……?」
関口は男子の後を追ひつつ、彼の背に向かひて叫びければ、彼は
「どうせ安モンだから! 持つてていいよ!」
と言ひけれど、いよよ足取りを速めて、つひには見えずなりにけり。

 雨の音は、辺り一面にしんしんと響きわたりけり。折ふし、校門前の道路を車の走りぬける音聞こゆなり。関口は、校門に続く桜並木の間を、ビニール傘さしつつ、つれづれと歩きけり。見れば、梢のつぼみは固きうろこ取れて、淡き緑の萼(がく)を覗かせり。4~5日経ば咲きぬべし。ただ2週間ほど前は、固く小さき紅色のつぼみなりしかど、いつの間にかかくもふくよかには膨らみにけるよ。

(さつきの人、わざわざ自分の傘を私にくれるや否や、すぐにゐなくなつてしまつた。なんて大胆な人だらう、自分の持ち物なのに。そしてすごく申し訳ないな、私が傘を頂いたことで、代はりにあの人がずぶ濡れになつてしまつたのだから。でも素敵な人だつたな……。何年生の人だらう? 春休みなのに、こんな時間まで学校に残つてゐるとは珍しい。自習室で勉強してゐた新高3の先輩かな? 名前も学年も聞かないまま別れてしまつた、惜しい。いつかまた会へるかな……。)

 先の男子のことをつらつら思ひめぐらしつつ、校門を出て、帰途につきけり。駅に着きて、電車に乗りけり。車内は日頃のやうに、通勤・通学の乗客に混みあひたり。人多くいぶせき中にありても、勤勉なる彼は、家の最寄りの駅に着くまで英単語帳を見ることを常としけるが、この日ばかりは単語帳も手につかで、雨にけぶる街を車窓よりうち眺めけり。右手には、男子より受けしビニール傘あり。そこらのコンビニに、400円ばかりの値にて売らるるおぼろげの傘なれど、手握るそのプラスチックの柄を、彼は親はしく愛らしきものに思ひけり。先の心優しき男子のことを思ひ返す時、彼は心の灯(ともしび)を得たるやうに、あるいはコーンポタージュを口に含みたるやうに、温かき心持ちして、心のうちにかくなん詠みける。

氷雨降る夕べも春の予感あり君がわが手に傘を賜へば
降りしきる氷雨に木々は凍ゆとも近き春待ち芽ぐむ桜は

(おしまい)

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