
「言われたことだけやる」で、無双できる時代
副業を始めてから、本業の時間をどれだけでも短縮したくなってきた。
1日は24時間で、これ以上増やすことはできない。そのうち何時間を稼働時間に充てられるかが勝負になるが、僕は睡眠時間を削るという選択肢は無理なので、稼働時間の密度を上げていくしかない。
密度を上げたうえで、限界まで本業の時間を削る。削るといっても1日8時間は契約上拘束されるので、ここが限界になる。つまり、どれだけ残業をしなくていいか? がキモになる。
やるべき仕事はある。もちろんある。
僕は金融機関の本部の課長だから、仕事はどれだけでも生み出す事ができる。本部は仕事を生み出す場所であり、生み出す事が給料に入っている。
とはいえ、仕事を生み出そうとすると自分の仕事が増えるので、極力おとなしくしている。副業をする以上、残業などしている場合じゃない。仕事を生み出すなどもっての他なのだ。言われたことだけやっている。
言われたことだけやる。
おそらく、あなたはこのフレーズから嫌悪感を覚えただろう。
しかし、勝ち筋はそこにあるのだ。
+++++++
昔から評価が低い人の典型的な特徴がある。その一つがこれだろう。誰しも一度は耳にした事があるはずだ。
「あいつは、言われたことしかやらない」
先日、こんな記事をXで見つけた。書いてあるのは、大学教授の悲鳴である。
学生が生成AIでプログラミング系の卒論を書いて提出してくることを危惧しているのだが、それは手を抜いているからではなく、何の理解もしないまま提出してくることに危惧している。
生成AIに書いてもらい、卒論を提出する。しかし、どうもプログラムが間違っている気がして差し戻す。しかし学生からは「生成AIが書いたのでどこが間違っているかわからないし、生成AIに聞いてもわからないと答えました」との回答が来る。そこで、天を仰いでしまうのだ。
指導者は、卒論という成果物を求めているのではなく、制作過程において一定の水準まで能力が上がることを望んでいる。なのに、生成AIにコアな部分を任せていては意味がない。それでは学生にやらせる意味はない。
与えられたミッションには、成果物からの利益を求める場合と、過程から得られる成長を求める場合がある。
卒論は明らかに後者だし、会社員が与えられるノルマは前者の性格が強い。
重要なのは、「このミッションで求められているものは何か?」という双方の認識が一致することだ。先述のケースは全くもってズレているから教授が途方に暮れている。
この場合、学生は指示したことを完遂(差し戻しは喰らっているものの)している。つまり「言われたことはやった」状態だ。しかし、教授は「結果」のみを求めておらず、学生が卒論の制作過程で一定の成長(この場合はコードの知識等)することを望んでいた。
「言われたことしかやらない」
それでは卒論という行為そのものの意味がなくなってしまうのだ。
これは会社でも良くある光景だ。
例えば、ある資料を作成しておいてくれと依頼する。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?