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人生には諦めていいものと、そうでないものがある

先日、タレントの小倉智昭氏が亡くなられて、氏がかつて寄稿したコラムが話題になってた。

このコラムは以前に読んだことがあって、その時も心に響くものがあったんだよな。


大きな知名度を誇りながらも、事業に投下しすぎて金がない。

高性能のスピーカーを揃えていても、補聴器をしているようでは意味がない。

ワインを飲みたくても、自由に飲めない。

そして、「老後になるとできないことがあまりにも多すぎる」と綴っている。


そこには、かつて栄華を誇りしものの凋落というよりは、人生のままならさ、無常さを感じさせるんだよな。

人生って、どんどんできないことが増えていって、最後は何もできなくなる「死」が待っている。

そう考えると、人って失うために必死で何かを集めたり身につけようとしてるみたいで悲しくなる。

今日の努力は、いずれ焼かれ灰となる。

焼かれてしまえば大差ない。生前努力した人は残った灰の中に黄金が混じっているんならやりがいはあるけど、そうじゃない。

死ぬために生きている。そんな言葉聞きたくもないけど、不動の事実としてそこにあるんだよね。目を背けちゃだめだけど、ちょっと見たくない真実だ。

よく「人生は死ぬまでの暇つぶし」って言う人がいるけど、勝手に言ってろって思う。そんな真実をわざわざ他人から言われたくねえんだ。自分の認識だけでお腹いっぱいだよ。


アラフィフになるとさ、先ばっか気になるようになるんだよ。

10年後、自分はどうなっているのか?

変な病気になっていないか?

まだ働けて給料をもらえているか?

親の介護は始まっていないか?

そんなネガティブなことばかり考えちゃう。とても「唸るほど金があって、旅行とかにも飽きちゃってるかもなw」なんてポジすぎる考えにはならない。

凡人のままでアラフィフになっちゃったんだから、このさき大逆転できるなんて厚かましい想像すらしなくなる。大跳ねはない。今の延長線上に、10年後の自分がいることを受け入れてしまってんだ。

そうなるとさ、いま以上に人生が好転することを想像できないから、悪化した未来を想像することになるわけ。どうしてもそうなっちゃう。

中年のネガティブ思考って、人生への諦め、自分の可能性の枯渇の認識からきてんだよな。だから簡単には改善できないし、どんどん強固になっていく。

そりゃそうだよ。日々身体は老化していって、耳元で

「お前は以前のお前ではない!昨日より確実に衰えている!現実をみよ!」

って絶叫してんだもん。そりゃ何もかも減退していくって。

老境になると人間として落ち着くって言うけどさ、単にいろいろ諦めただけなんだよな。欲はあれども完全に無理と理解しちゃったから欲がなく見えるだけで、枯れたわけでも達観したわけでもない。敗者の無気力さが出てるだけだ。


歳を取るって残酷だよ。本当に残酷だ。頑張って生きても、最後に諦めなければならない。

でもさ、本当に重要なのは「何を諦めるか」なんだよ。

そこを間違えると、やばいくらい惨めな人生の最終盤をむかえることになるんだわ。


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うちの会社にさ、一回役員までやった後に嘱託社員として残ってる人がいるんだよね。たぶん63歳くらいだと思う。

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