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月明かりに矢印を辿る / 秋ピリカ応募

静かな深夜の住宅街に足音だけが響く。
月明かりに動いているのは風に揺れる街路樹の葉と私の影だけ。猫背でため息をついているみたいな影。

起きて会社に行って残業して帰って
起きて会社に行って残業して帰って

影から目を逸らし顔を上げると掲示板に貼られている紙が目についた。
何のお知らせだろう。
水色の矢印だけが大きく書いてある。
矢印通りに曲がってみる。次の角には赤い矢印。その次には山吹色。
誘われるように歩いていくと七色の矢印が貼られた店に辿り着いた。
淡い水色のクリームを塗ったような波模様の壁に揺らぐガラスの扉。ぶら下げられた木の板には平仮名で『ほん』と書いてある。
ガラス戸を押すと微かにキィと音を立てた。
木の匂いと紙の匂い。
広い空間に私の肩ほどの低い本棚が迷路みたいに置かれている。側には赤いソファ、茶色の丸椅子、緑のベンチなど色も形も統一されていない椅子に座って本を読む人の頭が見えた。
隙間だらけで自由に置かれた棚から青い表紙の本を手に取ってみるとタイトルも作者名も無い。
青一色の表紙を捲ると黒く重そうな雲に囲まれた小さな青空の写真が現れた。
白く丸い雲がぽっかりと浮かぶ空、飛行機雲が微かに残る空。
空の写真集だ。
ーそういえば最近空なんて見てなかったな。
青い本を棚に戻し、他にはどんな本があるだろうかと周囲を見回す。
黄色い大きなクッションで本を読んでいた女の子が立ち上がった
こんな遅い時間に子供がいるなんて。親もどこかに座って読んでいるのだろうか。
気になって本を読む人達をのぞき見ると、中学生や五歳くらいの幼児など子供ばかりで大人が一人も見当たらない。
そのまま立ち尽くす私に眼鏡をかけた男の子が本を一冊差し出した。
「冒険の書、読む?」
深く濃い藍色の本。表紙の下の方に黄色い潜水艦が小さく描かれている。
表紙を開くとそこは海だ。私は読みながら潜水艦に乗って深海へと潜っていく。
いつの間にかソファに深く体を埋め次々と紙を捲る。頭の中では深海を探索し巨大な古代魚から逃げ、沈んだ幽霊船を発見している。
すっかり読み終わると、大きく息を吐いた。
こんなにじっくりと本を読んだのは久しぶりだ。もう一冊、何か読もうと立ち上がる。
低かった本棚が見上げるほどになっている。背伸びしながら上の棚に伸ばした私の手が子供の手みたいに幼い。
本を読むと子供になるのだろうか。
まぁいいや。
魔法の本、探偵の本、私は次々と本を読み紙から広がる様々な世界を楽しんだ。
「どうぞ、いつまででもごゆっくり。待っている人がいないなら。」
挟まっていた栞の言葉に目が止まる。
私を待っている人など誰もいない、と言おうとして頭の中に亀田の顔が浮かんだ。
すると本棚がぐにゃりと歪んで、消えた。
目の前には掲示板。
けれどもう矢印の紙は貼られていない。
帰ろう。
何か新しい本を一冊買って。
ミドリガメの亀田が待つ部屋へ。
月明かりに私の影が弾んでいる。

(1,185文字)

#秋ピリカ応募


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