ダフネのオルゴール第7話
夕食後から消灯までの時間も、私とクロエは当たり前のように一緒に過ごすようになった。大体は他愛無い話題で会話が盛り上がるが、まれに真剣な話をすることもある。意見や好みが合わなくても険悪にならない。むしろ自分たちの違うところを見つけられると、面白くて特に盛り上がった。お互いに本を読んだり日記を書いたりすることに集中し、ほとんど何も会話せず過ごす夜もある。しかし不思議と、そんな時も気まずい雰囲気にならない。こんな風に自然体で話し合える友達は今までいなかった。
今夜のクロエは言葉が少ない。今朝から新薬を試す治験が始まったので疲れているのだろう。私も静かに過ごそうと思った時だった。
「クレス、オルゴール取ってくれる?」「うん」
サイドテーブルの引き出しの奥から飴色の小箱を取り出す。底板に付いているゼンマイを巻いてから手渡すと、クロエはベッドテーブルにオルゴールを大切そうに置き蓋を開けた。病室が柔らかい雪のような音色に満たされる。
「綺麗な音。時々聴いてるよね。オルゴールの曲、聞き覚えがあるんだけど名前が出てこない」
「愛の夢、リストの」「ああそれだ」
眠気を誘う旋律が空間をふわふわと漂っている。クロエはオルゴールの箱を両手でずっと包んでいる。顔色は良さそうだ。オルゴールの音が小さくなって聞こえなくなった時、聞いてみたかったことを尋ねてみた。
「クロエは男の人か女の人と付き合ったことある?」
「あるよ。男女100人くらいと」「え?」「嘘、ジョーダン」
クロエはころころと笑う。最近よく子どものような悪戯を仕掛けてくるようになった。
「彼氏も彼女もいたことないよ。だから恋愛相談には乗れない」
「ああ、そういう相談じゃなくて。相談は、したいんだけど。実は私ね、アセクシャルみたいなんだ」
勘違いしかけたクロエに慌てて、ずっと秘密にしてきたことを思わず打ち明けてしまった。軽々しく伝えるつもりでなかったのに。顔が熱くなっていく。
「私の周りには同じ人がいないから、クロエはどうなのかなって、気になって」
握った手の中が湿っぽくなる。クロエはきょとんとした後、しばらく考え込んでから口を開いた。
「私も自分のことアセクシャルかもなぁって思ってる。病気になってから、誰とも付き合わずに死ぬなんて可哀そうって言われたことあるよ。その時は傷ついたけど、今なら何様だよって言い返せる自信ある。世間一般の型にはまらないからって、哀れだって言われる筋合いないし」
迷いのない答えに緊張が緩んでいく。同時にクロエと自分の心の強さに大きな差を感じて情けなくなった。
「私、自分のことなのに認められる気がしない。怖くて仕方ないんだ。周りの人に異常だって、普通じゃないって思われて、拒絶されることが。他人の顔色うかがってびくびくしてる自分が大嫌いだけど、どうしたらいいのか分からない。まず自分自身を受け入れなきゃいけないのは分かってるんだけど、自分が一番、自分を疑ってるから動けないの。本当は自分はアセクシャルでもなくて、単に愛情の薄い冷たい人間なんじゃないかって疑っちゃうんだ。このままだと私、嘘つくことだけが上手いだけの空っぽな人間になっちゃうんじゃないかって思って、不安で眠れないこともある」
破裂するように言葉が出た。クロエのマグカップの群青色が、ベッドテーブルの白の中で映えている。クロエは少し考え込んでオルゴールを閉じ、静かに口を開いた。
「愛情にはさ、たくさん種類があるんだ。家族愛とか師弟愛とか、名前がついてて分かりやすいものもある。性愛はその1つ。でもほとんどの愛ははっきり区別できないんだ。私はまだ数ヶ月間くらいしかクレスと関わってないけど、確かにクレスから愛情をたっぷり貰ったと思ってるよ。性愛が分からなくても愛情深くなれるって、クレスはもう証明してる」
「私が?証明?」
「そう。それに愛情は知性とセットじゃないと健全に機能しない。クレスはその知性も兼ね備えてるから、心配いらないよ」
ほうっと深く息を吐いてから、クロエは私に微笑んだ。今まで聞いたことのない愛の考え方を知り、ごちゃごちゃしていた頭の中がすっきりしてきた。
「私の場合は単に差別されることに慣れざるを得なかっただけ。思春期にはもう生き抜くことに精一杯だったから。慣れてることと本当に強いことは違うよ。世の中にあふれ返ってる簡単な結論に飛びつかないで、答えのない問題と辛抱強く向き合って、自力で答えを出さないと強くなれない。クレスは私よりずっとタフだよ。だからきっとオリジナルの答えに辿り着ける。おまけに自分自身を疑えるからこそ、答えを出したあとも公平に物事を判断できるよ。そういう人は空っぽにはならない。なれないよ、きっと。心配しすぎないで。これから何度だって失敗していいんだよ。疲れたら休んだり探したりしてさ、自分で決めて歩いていけばいい。そうすれば自然に密度の高い豊かな人生になってるから。他人と比べて焦ることはないよ。一度きりしか生きられないのに、人生を比べるなんて誰もできないから。命の限りに、思うままに歩けばいいと思う」
ついさっきまで金属のように冷たかった指先が、熱を持っていた。クロエに肯定されている。そう感じるだけで生きる気力が湧いてくる。
「……ありがとう。話してみて良かった」
「どういたしまして。なんか説教臭くなっちゃってごめんね」
「大丈夫。密度の高い人生かぁ。私、本当に頑張れるかな?幸せに、なれるかな?」
「なれるよ。幸せになる方法は愛の種類よりよっぽど多い」
「……私でも自分の家族、持てるかな?」
「ムーンヴィレッジなら独身者でも審査に通れば養子が設けられるよ。リンシャみたいに事情があって実の親とは暮らせない子どもたちは、ムーンヴィレッジにもたくさんいる」
リンシャちゃんの腕の傷が脳裏を過った。過酷な境遇が似ている2人の間には、親子以上の絆があるのかもしれない。
「そういえばリンシャちゃんの実の両親は病院に来ないの?」
「一度も見たことないな。リンシャが養護施設にいる時から親代わりになってる夫婦は、頻繁に面会に来てるみたい。リンシャも実の親の話はしないから、詳しいことは分からないけど」
惨い仕打ちをしてきた実の親を、リンシャちゃんはどう思っているのだろう。許したいけど許せない。会いたいけど会いたくない。正反対の感情の狭間で苦しい思いをしているのだろうか。
「そういえば話したっけ?このオルゴール、祖父がくれたの。家出する時に必要なもの以外は置いていくつもりだったんだけど、これだけは置いていけなかった。今は唯一の形見」
「すごく大切そうにしてるから思い出の品なのかなぁとは思ってた。そっか、おじいさんの……。綺麗なオルゴールだね。音も装飾も」
「ふふふ、そうでしょ。これ蓋の内側も綺麗なんだよ。ほら手に持って見てみて」
クロエは私にオルゴールを手渡してきた。慎重にゼンマイを巻いてから蓋を開ける。蓋の内側に散りばめられたクリスタルが星のように光っていた。全体に桜の花が彫り込まれていて、クリスタルは桜に落ちた水滴のようにも見える。透明な中蓋の奥ではシリンダーが回転して、柔らかい旋律を忙しそうに奏でていた。レトロなオルゴールの美しさにうっとりしていると、クロエが小さな声で話し始めた。
「……虐待する親は特別臆病なんだと思う。自分の外側にあるもの全てが怖くて仕方ないから、相手を傷つけずに愛情を示すことができないんだ。自分自身と冷静に向き合うことも怖いんだよ」
「臆病だから、か。私も臆病なんだ。どうしたらいいんだろう。どうしたらクロエみたいに強くなれる?」
「クレスは臆病じゃないし私は強くないって。クレスは周りに流されないで、本当に納得できる道を選びたいだけなんだよ。今は流されないように、必死にもがいてるんだ。流されたほうが楽で安全で、周りの人も安心する。そのことをちゃんと理解してるから余計に苦しいんだよ。その苦しさはクレスが強くて賢い証拠。臆病な人はその苦しさを避けたいがために流されちゃうんだよ」
「私、本当に臆病じゃないのかな」
「ワタシヲシンヨウシテクダサイ」
急にカタコトで答えたクロエに吹き出してしまった。私ならばきっと心が折れてしまうような幼少期を送ったクロエは、今や誰よりも私の心を支えてくれている。クロエこそ強くて賢い人なのではないだろうか。病室が少し暗くなった。消灯時刻が近づくと、部屋のライトは自動で暗くなる。そろそろ自分の部屋に戻らなくては。
「今日は治験で疲れたでしょ?たくさん喋らせてごめんね。でも楽しかった。じゃあ帰るね。また明日」
オルゴールを引き出しに戻して立ち上がろうとした時、眠たそうなクロエが私の腕を掴んだ。
「大きな問題が起きた時には、戻らないって心に決めると楽になるよ。時間は戻らないっていう人生の大原則を思い出すってこと。プールからあふれた水は戻らない。ひたすら外に広がっていく。止めるのは難しい。だから元に戻そうとするよりも、どんな風に広げていくか考えることだけに集中するんだ」
頷きながらクロエに布団をかける。静かに病室を出てベージュ色の廊下を歩きながらさっきの言葉を反芻した。プールから脱出していく澄んだ水を想像しながら。
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