東の脳へ 1
長編小説「東の脳へ」を4回ほどに分けてお送りいたします。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
※物語の中盤で、脳の病に関する描写が少々あります。苦手な方はご注意ください。
~あらすじ~
左脳の機能を劇的に向上させる薬、プラグマティズム・ブースターが世界中に広まった。日本の教育にも活用され始めるという時、科学者を辞めたばかりの周防諒は不安と罪悪感に苛まれていた。同時期に大学受験を控えていた男子高校生、中里知樹は周囲から勧められ、薬を飲む。親友の同級生、北倉浩平は飲まないという選択をした。
プラグマティズム・ブースターによって、三人の運命は大きく変わっていく。右脳という東の脳へ、現実は移行していく。
ヒトは脳の神経細胞による創造物を、絶対的な現実と思い込んでいるに過ぎない。
高校生の時、脳科学者だった叔父から聞いた言葉。その言葉は、私の記憶に深く刻みこまれた。それから、目の前を穏やかに流れる川、身体に吹きつけてくる生暖かい風の真の姿が、気になって仕方なくなった。
あの言葉に、私は自ら呪われたのだろう。伯父と同じ脳科学者の道を進んだ。一般的な安寧の人生へ続く道は、いつの間にか消えていた。
膝を抱えて草の上に座ったまま、平穏な河川敷を眺める。こんな時に、純朴な頃の初心を思い出すとは。もう、答えを知る望みなど無いのに。
地面に落ちている小石を拾う。
最後の挨拶は、午前中に終わった。周防と印字された研究員証は、目の前であっさりと裁断された。明日から、私は脳科学者ではない。完全に、脳科学の分野から追放される。もう、どこの研究所にも所属できないだろう。
しかし、想像していたほどの後悔も開放感も無い。20数年のキャリアを溝に捨てることなど、どうでもいい。
あの危険な薬を容認し、世界中にばら撒こうとする罪と、その罪の隠蔽に加担した挙句、罪を暴く苦闘を回避しようと逃げる罪、その恥の深さに比べれば、取るに足らない。私は、諦めてしまった。そして、逃げた。
立ち上がる。前方に人がいないことを確認してから、小石を思い切り投げた。川に届いた小石は、2回跳ねて沈んだ。少しすっきりして、また座る。
左脳を強制的に活性化させる薬。プラグマティズム・ブースター。あらゆる国で、兵士に投与された。ロジカルな状況判断、合理的な行動を常に強いられる兵士達に、あの薬は大歓迎された。
屈強な兵士が笑顔で訓練に勤しみ、あの薬をプラグマと親しげに呼ぶ。そして、爽やかに飲み干すという宣伝は、あらゆる場所で、マスメディアで行われた。
安全で便利な物は、軍から民間へ。その当然の流れのスピードは凄まじかった。研究者や医師、軍や政府の要人達が驚くほどに。副作用に関する報告という邪魔者はことごとく、なぎ倒された。
社会から高く評価され、幸せになるためには、隣人よりも賢くならなくてはいけない。そんな脅迫的な思考が、どれほど人心に深く巣食っているか、実感した。
自分の無力さも。嫌と言うほど。
「あの、すみません」
光の無い思考のプールの底から、一気に引き上げられる。
横を向くと、見知らぬ青年が私と同じような体勢で座っていた。反対側を見る。誰もいない。私に話しかけているようだ。
「えーと、何かな」
「さっき投げた石。すごいですね。びっくりして。どうやったんですか」
若干、丸みを帯びている頬を持つ青年は、朗らかに笑っている。人懐こい笑顔だ。
「え、ああ、ただの水切りだよ。見たこと無い?」
「無いです」
「丸い石をさ、こう思いっきり投げて、水面で跳ねさせるんだ。10回くらい連続して跳ねさせる人もいるよ。練習すれば、誰でもできる川遊びさ。やってみる?」
青年は嬉しそうに頷いた。50歳目前の今まで、子供が欲しいと思ったことは無いが、子を愛おしむ親の気持ちを、少し実感できた。青年と一緒に、水切りしやすい石を探す。平たく、丸い、適度な大きさの石。
それらしい石を見つけては、捨てる。青年と一緒に繰り返す。なかなか、条件に合う石は見つからない。しかし、この奇妙な状況が、楽しくなってきた。
「あ、おじさん、これは」
「お!いいんじゃない?とりあえず、投げてごらん。構え方は、こう。そうそう、横から投げる感じ」青年は私の構えを忠実に真似て、投げる動作を数回繰り返した。真剣な表情の青年は、凛々しい。
「さぁ、第一投。思い切って」青年が大きく腕を振り上げた。石は、川面を真っすぐに進む。1、2、3。跳ねた。2人で歓声を上げる。
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