ダフネのオルゴール第17話
最後の挨拶にと養父母と一緒にクロエの病室まで来てくれたリンシャちゃんに、ラッピングした手作りアルバムを手渡した。一瞬だけ笑顔になったが、すぐに泣き出してしまったリンシャちゃんを抱きしめる。
「泣くの我慢してたんだね。えらいね。お手紙たくさん送るよ。これからは優しいパパとママがいつもリンシャちゃんのそばにいる。だからきっと寂しくないよ。大丈夫」
「……クロエとクレスは、ここでずっと一緒?」
頭を上げたリンシャちゃんが、私とクロエの顔を交互に見ながら不安そうに聞いてきた。喉の奥が詰まってしまう。なかなか言葉が出ない。
「ずっと一緒だよ。私とクレスだけじゃない。リンシャもね。みんな遠い場所にいても一緒なんだよ」
クロエが淀みなく答えると表情を明るくさせたリンシャちゃんは、車椅子に座るクロエに抱きついた。片手をリンシャちゃんの背に回したクロエは、空いている手で私を呼ぶ。
私はリンシャちゃんを後ろから抱きしめた。笑い声が軽やかに響く。オルゴールのように。
備品室で患者さん用のクッションカバーを数え終わり、両肩を回しながら窓の外を眺めた。昨日とまったく同じように、街はオレンジ色に染まっている。やっぱりオペラ色にはならないことに安心し、クロエの病室に行こうと思った時、備品室のドアが開いた。カンザキさんだ。激しく息を切らしている。尋常でない様子に、嫌な予感がした。
「クロエさんが……とりあえず一緒に来て」
押し出したような声と言葉に、クロエの容態が急変したことを悟った。無言のままカンザキさんと急いでエレベーターに乗って降りる。病室までの廊下がやけに長いような気がした。
病室の前にはアリサとイーボリックさんがいた。お互いに目で挨拶するだけで、誰も何も話さない。壁にもたれながら目を閉じた。立会人に選ばれたと知った日から、ずっと覚悟してきた瞬間がくる。
クロエは爆弾テロ事件の直後から2日間眠り続けた。もう意識が戻らないかもしれないと医師から聞いた時、私はただ呆然とクロエを見ているだけだった。今の私はちゃんと覚悟を決めている。大丈夫だ。一体何が大丈夫なのか。また奇跡が起きてほしいと願っている。そうでなくては、私は少しも大丈夫ではないのに。
しばらくして病室から出てきた看護師は私たちを見回して、はっきりと告げた。
「立会人の方々ですね。どうぞ中へ。最期の瞬間まで、できるだけ話しかけてあげてください。返事は無理かもしれませんが、聞こえてはいるはずです」
希望が打ち砕かれて、足がすくんだ。病室に入っていくアリサとカンザキさんの後ろ姿が遠く感じる。嫌だ。最期なんて、嫌だ。
両肩を温かい何かが包んだ。イーボリックさんが肩を抱いてくれている。痛みに耐えるような微笑みを浮かべるイーボリックさんに引きずられるように入室した。
イーボリックさんに促されてベッドに近づくと、酸素マスクを着けたクロエが薄く目を開いた。
「クロエ!みんな来たよ!私もアリサも、イーボリックさんもカンザキさんも」
瞬きで返事をしたクロエは、ゆっくりと右手で口元を指差した。酸素マスクを外してもらいたいのかもしれない。イーボリックさんに目線を送ると、医療モニターをチェックしている医師に小声で確認してくれた。
「少しの間なら外しても大丈夫だって。私が外すから、話しかけてあげて」
イーボリックさんが慎重に酸素マスクを外している間も、名前を呼び続けた。しきりに瞬きをしてくれる。まだ私の声は届いているのだ。生きている。永遠の別れなんて信じたくない。胸が詰まってきてしまって、呼びかけをカンザキさんとアリサに代わってもらった。
ティッシュで涙を拭っていると、ベッドテーブルに置いてあるオルゴールが目についた。手に取ってネジを回す。愛の夢のメロディが流れ始めるとほぼ同時に、クロエがかすれた声で呟いた。
「空、見たい」
すぐに病室の明かりを消して、天窓のスクリーンを開いた。夕焼け色の光が私たちを包み込む。クロエの顔色が少し良くなったように見えた。アリサとカンザキさんが私を手招きする。アリサは私をクロエの一番近い位置に座らせてくれた。柔らかい光の中で心地よさそうに目を細めているクロエは綺麗すぎて、もうこの世の人でないように思えてしまう。
「……ねぇ、あれからプラントエリアに行ってないよね。カンザキさんがまた他の果実が実ってるから、食べにおいでって。食べに行こうよ。そういえば海に行く約束したよね。探せばきっと月にも海はあるよ。行こうよ。約束でしょ」
まだ引き留めておきたくて、勝手に口から言葉が出てくる。力なく投げ出されている手を両手で握ると、クロエは私をじっと見つめてきた。時々、ため息のような呼吸をしている。
「苦しい?苦しいよね。マスク着ける?」
何か言いたそうなクロエの口元に耳を近づけた。口が動いているものの、声が聞き取れない。
「何?もう1回……」
「クレス……もう、私の家族じゃなくなっても、いいよ」
ため息の合間にゆっくりと紡がれた言葉に衝撃を受けた。強烈な寂しさが怒りに変わりそうで、必死に感情を抑えた。クロエの手を握りしめながら、伝えるべき言葉を探す。もう涙は拭わなかった。
「……もうクロエは家族を超えてるの。特別なの。宇宙で一番、特別な人なんだよ。だから、とっくに忘れてあげられない」
「……特別……特別……」
少し驚いた顔をしたクロエは、寝言のように「特別」と何度も繰り返してから微笑んだ。クロエの眠りに入る直前のような穏やかな目は、もう焦点が合っていない。
「こっち見て、クロエ」
呼びかけても反応しなくなった。クロエの表情が少し強張っている。
「クロエ私を見て。怖くないよ。私はクロエに嘘つかない。私を見てれば怖くないよ」
また目が合ってしばらくすると、クロエの表情は緩んでいった。ため息の回数が多くなってくる。別れが近づいている。もう恐怖と戦っているのは私のほうだった。クロエの顔を目に焼き付けたいと思っていても、視界がぼやけてしまう。またクロエが小さく口を動かした。すぐに耳を近づける。
「あったかいね」
呟いて目を閉じたクロエは深く息を吐いて、ゆっくりと吸い込んだ。もう呼吸音は聞こえない。私はクロエの胸に耳を付けた。
「本当。あったかいね」
静かで温かいクロエの胸の上で泣いた。別れの覚悟は無力で、涙を止めてはくれなかった。
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