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私は「内的世界」に生きている~「外界」と「内的世界」の定義と考察~

 こんにちは。ねこっちです。

 私は、過去に「子ども至上主義」という大きな悩みに苦しみ、生死のことを考えに考える日々を送っていたこともあり、私にとっては「子ども」という存在、および人生の時期は生涯において特別な意味を持っています。

 以前にこの「子ども至上主義」については記事として書いたのですが、その記事では書ききれなかったことは山のようにあります。

 この記事では、世界を「内と外」に分けて考える視点から、この悩みを考察していきます。


外界・五感や言葉で成り立つ世界

 まずは「外」から説明します。

 私たちは、好きな食べ物を食べた時に「美味しい」と感じたり、可憐に咲く花を見た時に「きれいだ」と感じたりします。これらは、前者は主に味覚、後者は主に視覚によって成り立っています。

 そして、その情報を「美味しい」「きれいだ」という言葉で表現します。このように、五感を通して入ってきて、それが言葉で表されることで共有される世界を「外界」と呼ぶことにします。

 例としては、鳥が飛んでいる窓の外や、目の前にあるお茶、エアコンのきいた涼しい室内はいずれも外界です。五感で感知され、言葉で表現可能なものである、という認識でOKです。

内的世界・五感や言葉では分からない十人十色な世界

 次に「内」の説明です。

 先ほど、好きな食べ物を食べた時に「美味しい」と感じることに触れました。しかし、どのように「美味しい」と感じるかは人それぞれです。

 例えば、私は一口に「美味しい」と言えるものであっても、次の記事に書いたようにさまざまな「美味しい」の感覚を持っています。

 「万」という言葉の響きがチーズケーキの味であったり、「もらう」という言葉が「のりたま(丸美屋)」の味であったり、一見、その言葉からは想像できない味が私の中では感覚としてリンクしています。

 このような特殊な例でなくとも、こうしたものはあるはずです。言葉では「美しい」という文字になるものであっても、どのように美しいのかは人それぞれのはずです。これは一人ひとり全く別のものを持っており、こうした、五感や言葉で表せない物事の総体を「内的世界」と呼ぶことにします。


「夕焼け」と言葉では表される風景も、どのように感じるかは人それぞれです。

「外界」と「内的世界」の関係

 私たちは、外界の中を生きています。一方、自分が主体として認知しているのは、内的世界に映っている外界です。つまり、おそらく人は個々人が違う内的世界の中を生きており、その一部を外界として共有しています。

 また、人によって違う様々な「美味しい」「美しい」が、言葉では同じ「美味しい」「美しい」になることから分かるように、言葉で表される外界は、内的世界のごく一部を反映した影のようになっています。

 つまり、私たちは外界の中を生きている一方で、外界は内的世界の影のように存在しているというわけです。


右側の、人の横顔のように見える影は、衣類の影です。影から元のものが想像できないように、影になったものは、元の情報を失った形で存在しています。

内的世界を満たそうとする欲求

 私を含め、人には「内的世界を満たそうとする欲」があるように思います。いわゆる「本当の自分」というのは、この内的世界が満たされている自分なのだと思うのです。

 私の目線から人々を見ると、自分とは何かを調べるために啓蒙書を読み漁る人や、自己研鑽に励む人、お金で自分を満たそうとする人(伯父がそのような人です)、あふれんばかりのパフォーマンスで多くの人を幸せにする人(スポーツのスター選手など)など、様々な人がいるように思います。

 表現形態は違えど、それぞれ、皆「内的世界を満たそうとする方向」に動いているように見えること、および私も「内的世界を満たしたい」と考える節があることから、人には「内的世界を満たそうとする欲」が普遍的にあるのではないか、と思うのです。

 そして、この「内的世界」が満たされている人ほど、自然な笑顔が出ることを、私は経験から知っています。すなわち、「自然な笑顔=幸せ」と考えれば、幸せとは内的世界が満たされることではないか、とも考えられます。

「子ども至上主義」の意味

 子ども至上主義は、2019年にかけて現れ始めた、大きな悩みの一つです。これはどういったもので、なぜ私は子どもを「至上(=最高)」と考えてしまうのかは、今でも謎の部分が多いですが、上で述べてきたことを踏まえると、その疑問の一部は解けるように思います。

 結論から言ってしまえば、「内的世界が無条件に満たされる時期=子ども時代」と考えてしまっていたことがその理由にあると思います。

 子ども時代、まだ外界の経験が少ないことから、自分なりに考えるということは、それ自体が内的世界の表現になり、それが自分のオリジナリティーに自然につながっていたのです。

 例えば、私は幼いころ、揚げ物を揚げる時の音を「トリトリ」と表現していました。「ママ、今日はトリトリするの~?」と言うと、母も笑顔になり、「そう、トリトリするよ~」と言ってくれました。一般的には、揚げ物の音は「ピチピチ」のように表現することもありますが、それを「トリトリ」と言えたのは、自分の内的世界を素直に表現したからにほかなりません。

 また、私の子ども時代は、こうした内的世界の表現を褒めてくれる両親のもとにありました。幼いころに作った歌や、遊びとして行っていた「劇」(下記記事をご覧下さい)は、全て内的世界の表現でした。

 今でも、内的世界を表現することは多くあります。今まで行ってきたキャラクター紹介や、オバケ興奮特性、数学・物理や作曲、物語作りなどは、私の内的世界の表現です。

 しかしそれらは、幼いころのような素直なものではなく、どこか自分がひねり出したような感覚がぬぐえず、また物語の作風も「日々出会ったものを自由に表現する」から「頭で考えたものを作る」に変化し、さらに幼いころ「トリトリ」と直感的に言えたような感性は次第に鈍るようになり、私は「自分の子ども時代」に、圧倒的に敵わない何かを感じるようになりました

 さらに、周囲の環境は大人びたものに変化し、「お金」や「書類」などのような、厳密な言葉で表現できる外界の物事が自分の生活に密接にかかわることを理解するようになったり、外界で評価されなければ内的世界は評価されないことを知るようになったりし、内的世界が自然に満たされている状態から遠ざかることを感じました。

 これが、「子ども至上主義」という言葉で表現しようとしていた私の苦しみだと考えられます。

 しかし、「子ども至上主義」という言葉も所詮は言葉、すなわち内的世界の情報が影になったものであり、私はこの「子ども至上主義」にこだわるほど、自身の内的世界のありさまを思い出せなくなるという最悪の悪循環にとらわれる日が続きました。

 この悪循環は、「どんな外界が眼前に広がっていようとも、私は内的世界に生きている」と自分が自覚し、外界の物事にこだわることをやめる日まで続きました。逆に言えば、自分の内的世界は、自分が積極的に内的世界に生き、外界のこだわりを放棄することで守れるのだと気付いたことで、この悪循環、すなわち子ども至上主義は幾分か和らぎました。

蛇足:私が以前からnoteの記事で「こだわりを放棄することは大事だ」と言っていたのは、この気づきが故のことです。

最後に・この記事では何を書いたのか

 この記事では、「外界」と「内的世界」の二分を用いて、その相互関係や、内的世界を満たそうとする欲求の存在、および子ども至上主義という悩みの意味について考察してみました。

 このように、改めて言葉にしてみると理解が深まります。こうした精神的悩みは、冷静に考えれば考えるほど視界が開けてくるので、その爽快感が癖になってしまう節があります。

 しかし、この記事に書いたことで「子ども至上主義」が解けたのか、と言えば、そうではありません。あくまでも問題の所在を「外界」と「内的世界」という言葉の曖昧さに押し込んだだけで、それらの言葉が明確でない以上、完全に解けたとはまだ言い難いと思います。

 今回考えた「外界」と「内的世界」という言葉の意味は、今後も探求していくこととなりそうです。また、いくら「自分は内的世界に生きている」という自覚を得ても、「内的世界」というのは言葉、すなわち外界のものなので、やはり内的世界に生きるには、積極的にそれを実践するしかないのかもしれません(その感覚は私にしか分からないので、これ以上は書けませんが・・・)。

 以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

   ねこっち

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