茶碗と牢

茶碗が割れた。
割ったというべきか、
いや、割れたというべきか。
意表をつかれた出来事だった。

茶碗が割れた。
洗っている途中で、
手のひらの中ですらりと
分かれた。

断面から白い、
さっくりとした質感の
層が見える。

持っている感覚としては、
冷たいお煎餅みたいな。
割ったお煎餅の側面を見ているような
そんな感覚だ。

茶碗を割った。
手のひらの中で分かった。

ふと、どうして割れたのだろうと考えた。
どうして割れて、そしてどうして
その経験が私の元にきたのだろうと思った。

洗っている時に茶碗を分つ経験は初めてで、
これはなんとも、恥のような、驚嘆のような、
それでいて吹聴したいような、
そんな感覚を味わっていた。

そんなに力を入れたわけではない。
綺麗に洗おうと、自分のできることをしようと、
気合は入っていたかもしれないけど。
そんなに繊細そうなものに見えなかった。
わかりやすく繊細なものではなかった。
ただ、事実として、分かれた。
綺麗な分かれ様だった。

花びら一枚剥がした様に、
茶碗の一欠が、元の椀に乗っている。

ふと、自分の中の薄暗い気持ちを思い出した。
変化や行動が多く、力があるというのは、
その分周りを何かを動かして変化させる力も
あることで。

それはある種の抑圧で溜まったものでは
あるのだけど、意識をしていない状態で
道理がわからず動いた結果、
変化を厭う何かに、更に抑圧されてきた
思い出がある。

蓋をしても、その中で動き回るものは
狭い場所にいるからこそ重く、そして
力強く、自発的な動きを伴って、
蓄積され続ける。

それを放出する仕方がよくわからなくて、
悩んでいた時期が沢山あったなぁと
ふと、今回の件で思い出した。

茶碗を割ることは初めてだし、
もう既にひび割れていたのかもしれない。
私が今まで一身に背負ってきた罪悪感も、
表面下に何かすでに素因があって、
なるべくしてなる流れだったのかもしれない。
そしてそこに触れたのが、
たまたま私だったのかもしれない。
そうして、本質を置き去りにした人たちから
中傷を得たのかもしれない。

かもしれない。

事実として、そこまで握力が強いわけでない。
色んな思いはあっても、
無碍に扱った結果ではない。
そういう流れの中で、
触れるものが多く、
意志もある分、
その変化に触れただけかもしれない。

こんな言い訳を並べるほど、
実はとても響いている。

ごめんね、とは思わないのだけど、
いままでありがとうね。
その分気づきを得させてもらって、
過ごしていきますよ、
と茶碗に思っている。

牢の中に閉じこもらなければ、
と思い込んでいた感覚を思い出したが、
この椀の一欠は、
錠を分つきっかけになるのだろう。

茶碗ありがとう。
私の生きる糧を収めてくれて、
どうもありがとう。
椀まで喰らって、
また過ごす。

次は、もう、割ることはないです。
おそらくは。願わくば。

もし何かあっても、
こうして受け止めて、また
何かを芽吹かせるのだろうな。
そんな午後。

くわばらくわばら。
学びをありがとう。
では。

了。


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