二俣川界隈の縄文土器ー郷土史の良さを知りはじめました
本村生まれの郷土史家
駅近スーパーの裏には二俣川古道が通っている。読み始めたばかりの郷土史に二俣川古道という言葉はないが、歩くうちにそう呼びたくなった。二俣川古道と何度も反芻するうちにしっくりしてきたから不思議なものだ。
この古道沿いある公園が竪穴式縄文時代の宮沢遺跡だと、前にnoteで紹介した。手元にある郷土史の本にこの遺跡が載っていないとも書いた。
宮沢公園は遺跡の立看があるだけ。遺跡らしいものはなにもなく、ジャングルジムや滑り台があるごく普通の公園だ。手元の本に宮沢遺跡が書かれていないのは、郷土史家とはいえ縄文時代の思い出までは語れないからだろうなどとひとり納得していた。
ところが、別の人が書いた郷土史にはあった。昭和62年頃に福井光治さんが書いた「故郷雑記」に、本宿の諸所から縄文土器が出土したという話がある。
送電線の鉄塔建設工事中に、縄文土器の破片が沢山出て、周りの畑に散乱していたのを小学校のクラスメートが拾って保管していたとか、隣家の宅地でごぼう作りに三尺位深く耕し天地返しをしたら沢山出てきたとか、また別の家では所有の畑を深耕したら沢山出土したなどとある。人形土偶なども出土したという。
畑から出てきた出土品がいまどこにどうなっているかはわからない。ただ、福井さんの土地は縄文遺跡のから近かったので、畑から出土した縄文土器のエピソードに縁があったのだろう。
本宿の人々の先祖を追い求める福井さんの想像は縄文時代にさかのぼる。宮沢遺跡に代表されるように、縄文時代にすでに本宿に住む人々があった。福井さんは、この人々が我々の祖先だという。
福井さんの郷土史は、遥か縄文時代から本宿の地を受け継ぐ者の意識に貫かれている。
今宿生まれの郷土史家
前のnoteで手元にある郷土史の本といっているのは、郷土史家大菊一太郎さんが書かれた「あさひ区内散見」。昭和45年に旭区から依頼されて14年のあいだ広報誌に151回連載し、昭和59年に発行された。
「まえがき」によると、大菊さんは今宿で生まれ育った。郷土史に興味をもったのは、子どものころ、万葉集のなかに自分が住む「都筑郡」の名を見たことがきっかけという。今宿には、近辺では最古の寺といわれる清来寺がある。畠山重忠を詠んだ「夏野の露」を所蔵する古刹だ。
大菊さんの手になる郷土史は、旭区の依頼にこたえて旭区の全体に目配りしつつも、やはりというべきか生まれ育った今宿界隈の話が豊富である。宮沢遺跡があるいまの二俣川2丁目あたりは、地縁が薄かったのかもしれない。大菊さんは「まえがき」の末尾で資料協力した人々に謝辞を述べているが、今宿界隈の人びとのようである。
あるいは、こうも思う。縄文時代まで代々さかのぼることは到底できないから、大菊さんは縄文時代の遺跡をとりあげるのをためらったのかもしれない。
郷土史には生活史の温かさがある
旭区は横浜市18区のなかでもかなり広い。広さの面積ランキングでは、戸塚区、鶴見区、青葉区に次いで4番目だ。単純に広さだけの話ではないだろうが、郷土史は書く人が生まれ育ったその界隈の地縁に支えられて出来るものらしい。
郷土史は、書き手その人を含む界隈の人々の生活史である。書き手がともに生きた人々の汗と涙、悲喜こもごも、当地で生き抜いてきた知恵が温かなまま行間に閉じ込められているようだ。わたしは最近、訥々と書かれた郷土史に慎ましい魅力を感じている。