バンドやろうぜ
あの日から約2週間。日常は流れていく。溜息ついたって、俯いてたって、涙で霞む行き先に進むことを躊躇して立ち止まろうとする自分に
歩幅を合わせてはくれない。
バンド仲間からの連絡
櫻井さんの訃報を知った日、私の近況を知る数少ない友人と夫以外に連絡をくれた人がいた。高校の同級生で、今は音楽関係の仕事に就いているマサヒロ君だ。彼からのメッセージは他のそれとは違い、私を気遣うものではなく、BUCK-TICKの櫻井敦司の死を悼むものだった。
彼を含む4人で、高校の頃バンドみたいなものをやっていた。バンドと言っていいのかもわからない程に幼い活動であったが、私にとっては忘れがたいの思い出のひとつだ。所謂青春というやつである。
中学生の頃にバンドブームを経験し、「バンドやろうぜ」などでメンバー募集を試みたこともあったので、入学後すぐ高校にあったフォークソング部に入った。しかしそこはフォーク好きの顧問と幽霊部員しかいない活動休止状態の部だった。
顧問であるバーコード頭に銀縁眼鏡の数学教諭、岩田先生は、私の入部希望に驚き喜ぶとともに、幽霊部員の2年生3人を退部にした。おそらく切られた当人達は在籍していたことも覚えていなかっただろう。
それまで楽器と言えばピアノを1年でやめたくらいで、全くの素人だった私は、入部と同時に部長に就任した。やけに眼鏡の奥が鋭く光る年齢不詳の岩田先生は、学校にあったクラシックギターでコードの押さえ方などを教えてくれた。しかし生来不器用かつセンスがなく、更に手が子供のように小さいため、私はほとんど習得できなかった。
やがて先生は教えるのを諦め、自分でギターを弾いて私に歌わせた。
素人が言うのもなんだがなかなかの腕前だった。
中島みゆき、長渕剛、チューリップ、吉田拓郎。初めて聴く昭和フォークソングもあったが、とても新鮮で美しい曲の数々を先生のアコースティックギターに合わせて歌い、その年の文化祭で披露した。
文化祭の舞台を見て、3人の同級生が入部してきた。その一人がマサヒロ君だった。彼は小柄で、薄目で見ればL'Arc-en-CielのHydeのような可愛らしい顔立ちであったが、音楽オタクであった。ギターを弾く時の彼の眼はどこを見ているのかわからなくて、ちょっと怖かったのを覚えている。余談だが彼は卒業後も音楽関係の専門学校に入学し、髪を腰まで伸ばしていたので、もてなかった。
ギターの弾けない私と、ギターしか弾けない男子3人で、先生が買ってくれたスコアブックを見ながら、流行歌と好きな曲の中から自分たちの腕で演奏できる曲を選んで練習した。そして文化祭や新歓などの場でライブを披露した。数えるほどしかやらなかったが、今も色鮮やかに蘇る。ライティングを考えて、セットリストを話し合い、ほんの少しMCまでして、とても楽しかった。
卒業して間もなくまでは、集まって飲むついでに路上ライブをやったりしたが、それぞれ就職や結婚を経て、集まることも少なくなっていた。
突然の訃報、久しぶりの連絡
「櫻井さんが…」
節目にも会わなくなって6.7年、やりとり自体5年振りだった。突然そのマサヒロ君がメッセージをくれたのだ。
私が6月にオリックス劇場でのBUCK-TICK「異空」ツアーライブの帰り、興奮でまっすぐに帰宅できず、しかし感動を分かち合う人も場所もなくて徘徊していたあの夜、初めて買ったツアーグッズと、混乱して撮った夜空の写真にとりとめのない感想を添えて投稿したSNSを見たのだという。
彼は私よりずっと幅広い音楽を聴き、今はサウンドエンジニアを生業にしている。そしてBUCK-TICKもよく聴いていたのだという。私は中学生で離脱して、そのあとXなどを聴いたり、やがて広く浅くしか音楽を聴かなくなっていた。彼とは高校時代から多くの時間を共にしたのに、知らなかった。
その夜はLINEで悲しさを分かち合い、正月に里帰りしたら飲もう、BUCK-TICK語りをしようと約束した。
タイムマシンがあったら
35年前に戻って、中学生の自分に言ってやろう。
お前は狂った太陽までしかBUCK-TICKのCDを買わずに、2023年にまた聴くようになってとても後悔する。一般販売でライブ参戦してすぐにFTに加入するが、その後にとても悲しいことが起こるんだ。だからもっとよく、音楽と向き合え。聴けるものは聴けるうちに、見られるものはみられるうちに。
そして友が、「音楽続けよう、プロになろう」と言ったらあの言葉を、どうにでもして、何かの形にする努力をしてみろ、出来る限りあがいてみろ、と。
#バンド仲間 #BUCKTICK #タイムマシン #バンドやろうぜ
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