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【短編小説】 春の光


 桜色のいと小さき爪は、小さいながらも彼のそれによく似ていて、私の人差し指をキュッと握ってくる手が愛おしい。
「もう少しで4000キログラムだったって、助産婦さんに言われて」
 両親とも細身な体型なのに、目の前の赤子は相撲取りのようにふくふくとしている。
 頬は紅らんで、少しカールがかかった豊かな髪を撫ぜてやると、好きも嫌いも、是も否もなく、ただただありのままを吸収しようとする無垢な視線にあたって、疾しさから目を逸らしたいが、陶器のように白い白眼と、艶やかな大きな黒眼に、吸い込まれるようにして、目が離せない。
「目が大きいのは、お母さん似ね。きっと美人になるわね」
 早く帰りたい。心の中ではそう思っていた。
 友人の子供の誕生を祝いに、皆でやってきた。傍らには出産経験のある友人の発案で送られたオムツケーキなるものが置かれている。
 夫婦共々、学生時代からのサークル仲間で、卒業後も、半期に一度くらいの割で飲み会やらBBQなどをして集まっている仲だ。
 綾子は、ベビーベッドに寝かされた赤子がむずがらないうちに、手早く人数分のグラスを用意して、数種類の酒と炭酸水とジュースと氷をリビングに並べてから、後は好きにやってと、気心の知れた旧知の仲の気楽さで言うと、彼女自身はミルクを作り始めた。
「ミルクなの?」
「ううん、今は併用。そろそろ仕事復帰したいから、保活を兼ねてね」
「俺、タバコ」
「あたしも」
 独身組は早々に逃げ出した。
 タバコを吸わない私は、その一団に混ざることも、育児の云々に混ざることも出来ず、飲み物を作る雑務を請け負って、やり過ごす他なかった。
「リリちゃんだっけ?名前は誰が決めたの?」
「うん、リリ。漢字は莉里と書いて。彼の希望でね」
 昌彦はベビーベッドの横で、アニメの主人公からとった名前ではないのかと揶揄われている。
 その名に心当たりがある。
 あの日昌彦と観た映画の主人公の名前。
 ただの偶然か、それとも意図があるのかと、彼の様子をちらりと伺う。
 彼は少し早口で、百合の季節の産まれだし、海外で活躍しても覚えが良さそうな響きの名を選んだのだと説明している。
 綾子はミルクの温度を、哺乳瓶を自分の頬に当てて確認し、ベビーベッドの赤子を抱き起こす。
 彼女の肩越しに赤子と目が合うが、その何を考えているか解らない視線が少し怖い。
 私の欲しい幸せを、目の前の彼女が全て欲しいままにしている。
 嫉妬にかき乱される気持ちを上手く隠しおおせていると思う。そうでなければ、近くにいることなど出来なくなる。
 羨ましく思っても、昌彦が幸せならいい、自分がその分寂しい思いをしても。
 本当は見ているのも辛いのに、そんな綺麗事で自分の心を偽るのは、友人としての彼を失うのが嫌だからだ。
 素知らぬ振りを続ける私を追い込むように、男友達の数人が、慣れない育児で、少し面やつれした綾子の色香を密かに気にかけているのも、さらに神経に障る。
「大丈夫か?」
 悟に声をかけられてハッとする。
「酒作るの手伝おうか?」
 ああ、そっちの事か。
 気取られたのではないかと思ってヒヤッとした。
「あ、ありがとう」
 作り終えた酒を配ってもらえるように頼んで、タバコ組にオーダーを取りに行く。
「ねえ、恵美はどう思う?」
「ん?何の話?」
「赤ちゃんが悟に似てるって話」
 そんな話は初耳だが、以前に莉里ちゃんを連れた綾子に会った子から漏れ聞いた、既に仲間内で噂になっているような口ぶりだった。
「目元とか?」
「わかるー」
 爪の形が昌彦のそれに似てると思った自分の判断が揺らぐ。
「冗談でもそんな話」
 少し怖い顔を作って嗜めると、友人達は白々しいという顔をして、
「恵美は真面目だもんねぇ」
「あたしコークハイ」
「あたしウーロンハイ、濃いめで」
「そういえば、こないだ行った居酒屋のあれ、美味しかったよね」
「うんうん、簡単に作れるのに美味しかった。食べたーい」
「あ、あの日恵美いなかったんだっけ」
「そっかー。作ってーってお願いしようと思ったのに」
「あそこのマスターが誘ってくれたイベント行く?」
「あー、あれね。行く行く」
 故意に生み出された疎外感に、傷ついて何も言えずに、お酒を作りに戻ると、ミルクを飲み終えた莉里が背中を叩かれてゲップをしたところだった。
 満足したのか、にこっと笑って、あーとかうーとか言葉になっていない音を発して、悟を指差す。
 まさかとは思いながらも、悟の面影を莉里ちゃんの中に探してしまう。
 眩暈がする。
 真偽が判らずとも、煙のないところに噂は立たないものだ。
 私は昌彦を不憫に思う。
 綾子を呼び止めて、
「ごめん、ただの寝不足だとは思うのだけど、さっきから頭痛が酷くて。もしも風邪で莉里ちゃんに移したりしたらいけないから今日はこれで失礼するわ」
「あら、大丈夫?」
「うん、また」
「そう?また遊びに来て。あ、莉里オムツかなぁ、じゃ、見送らないけど」
 そう言って、綾子は二階の寝室へと行ってしまった。
 私はその場にいた数人に、早々に帰る事を詫びつつ、悟に頼まれたお酒のオーダーを伝えて後を頼んだ。
 見送りを断って玄関で靴を履いていると、タバコ組の立ち話が聞こえてくる。
「ねえ、恵美、信じたかな?あの話」
「えー?まさか本気にしないでしょ?」
「そうよねぇ、昌彦によく似てるものねぇ」
「目元とか?」
「あはは、菜々ったら小芝居上手いから笑いを堪えるの大変だったのよ」
 さっきの話は作り話だったのか。
 半分冗談だとは思っていたものの、安堵する。
 一体何のために。
「それにしても綾子も悪い女だよね」
「悟が自分に靡かなかったからって、そこまでする?」
「恵美の好きな男寝取って、結婚までして」
「うちらに子供が昌彦の子じゃないような噂まで流させて」
 まさか噂を流した張本人が綾子だったとは。
 せめて昌彦が幸せならばと願う気持ちをも足蹴にしたかったというのか。
 眩暈が酷くなる。
 玄関を出ると、慌てた顔をするタバコ組の面々と目が合った。
「先に帰るね」
「え、ああ、バイバイ」
「さよなら」
 何あれ?と聞こえよがしな声が聞こえるけれど、もう振り返らない。
 足早に200メートルくらい歩いたところで立ち止まって、深呼吸をする。
 早咲きのピンクの色濃い桜が咲いている。
 春だな。
 休日を無駄に過ごしたのが口惜しい。
「やっと追いついた」
 びっくりして振り返ると、そこには悟がいた。
「大丈夫?」
 大丈夫なんかじゃない。
「何が?」
「えっと、頭痛酷いのでしょう?」
 大丈夫なんかじゃないのは誰のせい?
「何で追いかけて来るのよ?」
「だって、泣きそうだったからさ」
 誰のせいだと思っているのよ。
 見聞きしたことをぶち撒けたいのに、何をどう伝えればいいか解らず、口をついて出たのは、自分でも情けない言葉だった。
「私の代わりに作ってと頼んだお酒はどうしたの?」
「そんなもの、自分でやらせたらいいさ」
 お酒が出来ていないことで、また何か言われるだろうか。
 そんな心配ももう無用だ。
 しがみつくような友情でもない。
「桜が咲いてるの」
 悟は私が指差した方を見た。
「本当だ」
「飲みに行きましょう」
 手順を追って話をしよう。
「頭痛は?」
「飲んだら治るわ」
 悟はポカンとしている。
「行くの?行かないの?」
「行く、行くよ」
 今年初めての花見酒だ。
 桜の見えるあの店にしよう。
 やけ酒と洒落込むと決めたら、急に憑き物が落ちたように、スッキリした。
 悟を今まで男として見たことなかったなと思う。
 上から目線で言えば、見た目は及第点だ。
 でも。
 そんなに簡単に心変わりしたりしないんだから。
 私は怒っているのだ。
 莉里ちゃんの桜色の爪を思い出す。
 昌彦の手の温もりはもう覚えていない。
 それでも、あの映画のエンディングは、何度観ても泣くだろう。
 雲の切れ間から、光芒が射す。
 天使の梯子を駆け上がって、まだ見ぬ世界へ。
 怒りに触発されて、私のエネルギーは発散されたがっていた。
「怒ってるところも可愛いよね」
「うるさい」
 やっぱり嫌いだ。
 気を許してると勘違いしている辺りが大嫌い。
「手を繋ぐのと、腕組むのならどっちが好き?」
「殴られたいの?」
「。。。ちょっと」
 振り上げた手を掴まれて、そのまま抱きすくめられた。
「ごめん」
「何が?」
「嫌な思いさせて」
「わかってるなら、どうして」
「だって好きなんだ」
 私は、まだ怒っている。
「あたしは嫌い」
「酷いな」
「大嫌い」
 頭を撫ぜられて、泣きそうになる。
「嫌いよ」
「うん」
「大嫌い」
「うん」
 悟の顔が近付いて、あ、キスされる、そう思った時、収まりきらない怒りが発動した。
「いってぇ」
 悟は股間に膝蹴りを食らって、呻いている。
「甘く見ないでよね」
「気の強い女、好きだよ」
 身体をくの字にして、息も絶え絶えになってなお、ちっとも懲りない悟にまた怒りが増幅する。
「置いていくわよ」
「待って」
「待たない」
 綾子と男の趣味が被ってるなんて思われたくない。
 節操のない女だと揶揄されるのもごめんだ。
 いつまで続くかわからないけれど、つまらない意地を張ってしまう。
 今はそれでいい。
 桜の散る頃には、先日通達された異動辞令により、どうせここにはいない。
 異動はキャリアアップの確約とわかっていても、この地へ未練を残していたけれど、それもさっき粉々に砕け散った。
 前方に降り注ぐ光芒は、異動先の方角を刺している。
 夕暮れ間もない時間から、駅前の縄のれんをくぐる。
 スタンドボードの本日のおすすめには、筍とホタルイカの文字が並んでいた。
 悔いを残さぬように、美味しい地酒を片端から呑んでやる。
 酔い潰れても介抱などしてやらないのだから。のこのこ付いてきた悟に構わず、オーダーを入れる。
「熱燗つけて」
 朧月夜に春を食らう、私の前途はどうやら明るい。

https://note.com/komaki_kousuke/n/nb1a0c2a5696e

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