ねこをいつか喪うこと

ねこは元々外で暮らしていた保護猫だったので、正確にいつ生まれたのかは分からない。
保護された当初に動物病院で推定された月と、うちで一緒に暮らしはじめた日を合わせて、仮の誕生日としている。
ねこは今日3歳(仮)になった。

猫の3歳は、人間でいうアラサーくらいに当たるらしい。まだねこの方が少し歳下ではあるものの、あと数年すると私を追い越してしまう。
誕生日は、また1年をともに過ごせた喜びをもたらすと同時に、いつか絶対に来るその日を意識させる。

猫の平均寿命はどうしたって人間のそれよりも短いという事実は、いつも頭にでんと陣取っていて、ねこを愛おしく思うほどにしんと冷たく重くその存在感を放つ。

私はまだ身近な人を喪ったことがない。だから、なのだろうか。その日が訪れることがひどく怖い。ねこが居なくなったとき、私はそれに耐えられるのだろうか。
ねこと暮らすまでの間、自分がどうやって生きてこられたのか、もう思い出すことができないのに。

いつまでも一緒に居て。置いていかないで。
そんなどうしようもないことを祈らずにはいられない。呼吸で緩やかに上下を繰り返す身体に耳を寄せ、鼓動の早さを感じると、持ち合わせている時間の総量の違いを思い知らされる心地がして、たまに泣いてしまう。

多分、というかほぼ確実に、その日が訪れても私はきっと生きていくのだろうことを知っている。これまで家族を喪った人々がそうしてきたのと同じように、悲しんで悲しんで、悲しみを受け容れて生きていくのだろう。
どれだけ愛しているものを失っても、世界は続く。そんな当たり前のことが、とても切ない。

なにかを愛するのは、こんなにも失うことの怖さと表裏一体なのだということを初めて知った。
永遠など、どこにも無い。
どんなに幸福な瞬間にも、透明な膜のように哀しさが貼り付いている。いつかこの瞬間も、思い出になり、そして記憶の彼方に薄れ去っていく。そんなことを思う。

それでも、途轍もない大きさの悲しみに踏み潰されるときが来るとしても、ねこが私のところに来てくれて良かった。
お誕生日おめでとう。

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