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GQuuuuuuXを観た。ガンダムをもう一度考える


私はガンダムについてはゲームやフィギュアから入った人で、ストーリーは小説でしか知らず、アニメできちんと観たのは初めてでした。単なる飽き性なので長いアニメやドラマは辛いのです…。今回は成る程これがガンダムか!!と感激しました。スクリーンは良いものです。

ところで、"ガンダム"が物語の設定上の戦争や戦いの両陣営に在る、というのは、元祖での特別な存在としてのGUNDAMが、特に90年代後期以降はその存在感が完全に"両性"な変化を遂げてきたなという印象を持っていました。敵味方特別ではないよ、と。雑にいうと、ガンダムだらけだ、と。そこに小さい頃から違和感がありました。ザクやゲルググこそ敵であり鬼だろ!と。ロシアはスホーイ37だろF22乗らないだろ、という訳です。

 そもそもガンダムというのは特別な存在であり象徴のようなものだったのでは?とガンダムをロボットとしてしか知らない自分としては素朴な疑問でした。
 今回の劇場で受けた印象は、その主人公機の存在が、いい意味で極めて"中性"だなと思いました。ガンダムでも非ガンダムでもなく、ガンダム相当のnearly equal、、GUNDAM?…。
 ただそれは、ガンダムそのものの在り方を真っ新に再定義しているような、これまでの白くない有象無象の(と言ったら失礼ですが)ガンダムばかりの世界とは全く違うという風に、まさに殻を破るように物語が大きく動き出す予感がし、気分が高揚しました。


ガンダムは兵器か、キャラクタなのか

 ガンダムは視聴者または読者(以降、視聴者と記述)にとって「キャラクター」的な役割を担っています。これは以下のような要素に区別されます。
①シンボル性
 ガンダムは作品ごとに異なる形状やデザインを持つものの、「ガンダムらしさ」というシンボル性は維持されています。たとえば、「ツインアイ」「V字アンテナ」「白を基調としたボディ」などの要素がこれを象徴しています。これにより、作品ごとに異なるデザインでも視聴者はそれを「ガンダム」と認識することができるわけです。

②善と正義の象徴
作中では兵器でありながら、視聴者にとっては主人公機であるため、正義のシンボルとしての役割を持っています。これが特に子どもたちに「ヒーローロボット」としての印象を与えてきました。

③商業的役割
 ガンプラや関連グッズの存在により、ガンダムは「商品としてのキャラクター」的役割も果たしています。視聴者に愛されるデザインや設定が求められるのは、この商業的背景によるものです。特に『ガンダムW』以降、ガンダム自体が「複数の主役級キャラクター」として描かれることが増え、視聴者が自分の好みのガンダムを選べる構造が明確化しました。つまり、特別なというより、好みのガンダムという発想が、商業的にもアニメ的にも相互で関係してきた経緯があるのではないでしょうか。 

区別の中にある曖昧さ

 作中のキャラクター性についても、時代時代で面白い変化があります。兵器であるはずのガンダムが、パイロット(主人公)と一体化し、物語の中でほぼ「キャラクター」として描かれる場合があります。例えば、ニュータイプやサイコフレームを用いたガンダムは、パイロットの精神や意志を投影する存在となります。
 また、ガンダムは視聴者にとっては「希望」や「革新」の象徴である一方で、作中では時に「戦争の悲惨さ」や「人間のエゴ」を映し出す存在として描かれます。たとえば『機動戦士ガンダムUC』では、ガンダム自体が「可能性の象徴」として強調されました。そんな場面を切り取っただけでも、強いメッセージがある作品だなと感じます。


ガンダムとしてのメッセージ

 富野由悠季氏は、シリーズ全般を通して、恐らくですが自己否定、つまりもっとやり様があったいう気持ちと、社会的な意義の大きさによる自己肯定のバランスの上に、本作の社会的意義を考えておられると感じます。芸術家としての葛藤とクリエイターとしての誇りの双方の絶対値の大きさが、時に視聴者へ挑戦的なメッセージを投げかけているような、ガンダムとはそういう作品背景をつねに感じます。それが、何というかガンダムの親としての凄みで、視聴者も試されているなと感じるわけです。それが無い、みんなが欲しがるものだけやってしまったのがSEEDでは無いか?と思うのです。個人的にはメカは好き(造形ではブリッツが1番好き)でも、作品としては最悪です。多分富野氏も唾棄したい様な作品だったのでは?と思うところです。つまりこうです。小賢しいこという必要はないけども、ただ「かっこいい」じゃねぇんだよ、わかる?みたいなプレッシャーです。富野由悠季氏の凄みはそのベクトルが制作側と視聴者にも向けられる点でしょうか。


ガンダムってやっぱ特別では?

 私にとってガンダムは、他のロボットアニメなどと比較して見ても、アニミズムというか、霊的な何かが備わった、ただの物ではない特別な存在という印象が濃かったです。たとえばガンダム外のものもすこし比較して、

1. 『伝説巨神イデオン』
イデオン=神の力の象徴です。イデオンでは、イデオンは古代文明によって作られた兵器でありながら、宇宙の根源的な力「イデ」と結びついています。この「イデ」は、意志を持った超越的な存在で、人々の感情や行動に反応し、破壊や創造を引き起こします。
作中では、イデオンはしばしば「巨神」や「伝説の兵器」として語られ、戦闘の道具である以上に、人類や異星人バッフ・クランの運命を左右する神話的存在として描かれています。
 一方でイデオンは民衆にとって希望であると同時に、破滅を招く恐ろしい存在としても認識されます。この二面性は、兵器が人類に与える恩恵と脅威の象徴であり、まさに「神」としての性質を強調しています。

2. 『∀ガンダム』
 ∀ガンダムは「黒歴史」の記憶を秘めた機体として描かれています。黒歴史とは、過去に起こったすべての戦争や破壊の歴史を指し、∀ガンダムはその象徴的存在です。 作中では、人々がこの黒歴史の記憶を失っているため、∀ガンダムは単なる古代の遺物や兵器以上の神秘的な存在として認識され、特定の人々にとって「封印された力」や「過去への戒め」を象徴します。
さらに、ムーンレィス(宇宙移民者)と地球の人々が互いに対立する中で、∀ガンダムはそれぞれの文化や信仰の中で異なる意味を持つ存在となります。このように、∀ガンダムは単なる兵器ではなく、人類の記憶や未来を語る「神話的存在」として扱われています。

3. 『ガンダム Gのレコンギスタ』
 宇宙世紀以降の技術が宗教的・文化的な信仰の対象となっています。特に、フォトン・バッテリーやガンダムフレームの技術は、古代の「奇跡」として神聖視されています。ガンダムG-セルフもその一部であり、単なる兵器ではなく、「選ばれた者」が使う特別な存在として描かれています。この点で、キングシーサーのような「守護者」的な側面を持つと言えます。
 G-セルフを中心に、人類が過去の技術や兵器をどのように解釈し、それに意味を見出すかというテーマが描かれています。兵器でありながら、それを超えた象徴的な存在としての側面が強調されています。

4. 『重戦機エルガイム』
 ランドブースター(エルガイムを含む巨大ロボット)は、「メカが持つ力が人間を支配する」というテーマを象徴的に扱っています。メカ自体が信仰の対象となる描写は少ないものの、人々の生活や文化にとって巨大ロボットが影響を与える様子が見られます。

GQuuuuuuXとはどのような立ち位置なのか?

 ジークアクスはつまり何なの?です。特徴やこれまでのガンダムと識別しうる要素は持ち合わせているものの、明確にガンダムとは表現されていません。白いのに、V字アンテナ?なのに、です。中性というのは、今作の機体の鍵で、よく見るポージングや2次作品?でもヒートホーク(ザクの象徴的武器)を持ってたりします。その点も"中性"のポイントかなと思います。

 『水星の魔女』でもガンダムとは何か?という問題提起がありました。ことの経緯結果はともかく、私はその描写の存在こそが、まさに作品としてのガンダムのある種の縛りのような呪い(それと決めつけてしまう固定観念としての呪い)を、制作としてそれなりに課題にしているということかと思いました。

 その点はもしかするとこのbeginningの一つのテーマだったのでは?と思ってます。つまり、作品というのは伝えたい何かがあるわけで、しかし興行として地位が上がるとそうした点がスポイルされ、より多くの関係者の利害が絡み、複雑になってくる。人気獲得のために敵も味方もガンダム、そしてガンプラのためにガンダムばかりの作品を描かされる等等。
 ガンダムが敵味方に多いのはあくまで関心を持ってもらうためのスパイスではあるのだけど、すると派手な部分ばかりが伝わってしまう葛藤になるのではないかと思うのですね。そこじゃないよ、という。

ところで、歴代作品のキャラで最も人気で、また最もキャラを色んな人に弄られてしまったのは、誰なのでしょう。私は、"赤い彼"だと思っています。彼はもう乗る物着るもの全部真っ赤に塗っちゃう訳ですが、他方で色というのは本来、何色にもなれる、変わりうる、また選ばれしものがその色を得る。つまり、真っ白であり、虹色でもある。

選んだその瞬間から、運命は動き出す。同時に困難の始まりでもあって、その屈折点のような虹色の場所へ少年少女を導くのは、過去の絶対的な赤い存在であり、過去と現在の邂逅だったりするのかなと。つまり、beginning。
私はなぜあれほど時間をかけて前半を据えたのか?は、そんな事情も関わり、かなり慎重にかつ大胆なセットが必要だった、とも感じ取れました。ガンダムとは何ぞや?と。「ただかっこいいじゃダメなんだよ、わかる?」と。


まとめ

 いつも子供の眼が欲しいなと思います。いや、子供のままでいたいなと密かに思っています。私にとってガンダムとは、乗り物であり夢であり、たとえゲームであれ動かすことができるからこそのものであり、それ以上でもそれ以下でも無かったわけです。
 富野由悠季氏は、子供に夢と希望を、と仰っています。私はテーマとか演出からみる作品の内容よりかは、とにかくガンダムとしての像そのものに希望を持って育った、つまりあのカタチがあることに希望が持てた訳です。また氏は何かのインタビューで、「ひとは大人になっても幼少のこだわりコンプレックスを一生捨てられない」的なことをコメントされています。やはり私には、純粋なかっこいいガンダムが、頭の中のガンダムフォルダの大半の容量を占めてしまっています。戦いに苛まれる少年少女の背景描写の強いメッセージやテーマやその演出からそれなりのものを感じ取った筈なのは確かなのですが。
 今回書いていても、やはり人の数だけ感想があり解釈考え方があるんだろうな、と思うわけです。知ってる人からすればここに書くことなど何の示唆も無いでしょう。メタファーなり作品の裏なり鮮やかに見抜く眼力には圧倒されます。
私などは、色々書けばソレっぽく分かった気でいられる。賢い気取りになってしまう。自分の等身大ではあるのですが。
でも、やはりいち視聴者としては小賢しく考えるよりも、SF的な科学の凄さを、感覚的に、視覚的に、必要な時に頭の中で描写できる楽しさや、自分で補って楽しむことこそが登場するメカやマシンの最もわかりやすい存在価値とも思うのです。メカ愛です。それが生きてきた中でのガンダム。それで良いんです。
で、感じ取るメッセージというのはその両脇かどこかに差し込んでおくべきもので、メインではないのです。骨格ですらない。言語化する時に表せれば良い。なぜなら、メッセージ性を伝えるのは文学や漫画で十分で、どうせ小賢しくなってしまうのではないか?
なぜ具体的な形や立体が有るのか?ということを、もっと感覚的に本能的に楽しんでも良いのかな、とか何とか、帰りの電車で考えていました。
 ちょっとダメな言い方すれば、"ガンダム"は少年の心で観るものであり、そこまで深い洞察とか、感想考察評論って、要るのかな??深掘りすれば出るのでしょうけど。たとえば『純粋性理性批判』とか読んで、"分からない"ということ自体が分かったに過ぎない、という絶望感に打たれながら考えるあの感じは、ガンダムではその様な類のものを必要とも、またそれを討論するべきとも未だに思えないのです。色々とああでもこうでもと如何に自分の説が核心をついているか?を誇らしげに表現する人が、つまり俺がガンダムを1番知ってる!みたいな方が結構おられるのですけど、それは凄いなと思う一方で、"子供の眼"というのは最早望んでも得難い、そういう大人の我々にはもう絶対に手に入れられない純粋で無垢なものなので、考えた者負けという意識もあっても良いのかな?と思ったりもする訳です。自己矛盾です。


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