フランスにいる私が、なぜ特攻隊を研究することに決めたか。
2001年9月11日。
私は、ニューヨークの大学で授業を受けていた。
朝9時のクラスだった。
いつものように授業を終え、先生と私たち生徒は明日の宿題の確認をしていると、ある生徒が慌てたように叫んだ。
「ワールドトレードセンターに、飛行機が突っ込んだって!!」
先生含め、私たちの誰もその言葉を信じず「何言ってんの?」と、真剣に相手にせず、明日の宿題の話をまた続けた。
当時はまだクラスのうち、携帯電話を持っている子自体が少なく、そのニュースを伝えた生徒しか持っていなかった。
彼女には授業中ずっと着信があったが、授業が終わるまで取らないでいたのだ。終わって留守電を聞いてみると、ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだことを知り、私たちに教えてくれたのだ。
そこにいた誰しもが「あり得ない」といった反応で、次の授業へ向け移動し始めた。
今となっては不思議ではあるが、緊急の校内放送たるものはなかった。生徒たちは次の授業までの空き時間をカフェテリアで過ごすために、私も一緒にそこに向かった。
カフェテリア付近に行くと、生徒たちがかなりざわめいていた。
テレビのスクリーンから、あのワールドトレードセンターと思わしきビルが、火だるまになっているのが見えた。
私たちは、さっきクラスで慌てていた彼女の言葉が、“どうやら本当らしい”というのを、目の当たりにしたのだ。
ニューヨークの道は、縦横一直線に造られているため、ある廊下に行けば南にあるワールドトレードセンターを見れるかもしれない、と私たちはそこへ向かったが、先生がその廊下を封鎖して、入れないようにしていた。
私たちが今いるこの街で起きていることだったのに、たった一台のテレビしか情報を伝えてくれない。
現代なら、すぐさま遠く離れた日本の家族や友達に無事を伝えられたし、テレビ以外の情報も簡単に手に入る。そのどれも出来なかった。
パソコンルームはあるのだが、不思議と行く発想が起きなかった。教室は全て閉められてしまったからおそらく入れなかっただろうが、それよりも私は、目の前にいるクラスメートとその場の気持ちを分け合うことを、自然に選んだ。
すべての授業が中止になり、地下鉄も閉鎖になり、私たちは文字通り学校に缶詰状態となった。
よく、混乱のため事件現場に居合わせている人々が一番情報が遅いというが、まったくその通りで、テレビの映像もどうやら少し前のを繰り返し流しているようだった。
飛行機が突っ込んでいく映像も、何度か繰り返していた。
私の他にも留学生がいて、その子に国にいる友達からかかってきた電話で「ワールドトレードセンターが崩れたらしい」ということも聞かされた。
ニューヨークに2001年より前に行ったことがある人なら、あのビルの高さを知っていることだろう。
私たちの目の前のテレビでは、火だるまになったビルはまだ健在だ。
あんなに高いものが、崩れるはずがない。
私たちは、何もかも信じられなかった。
すぐそこで起こっていることだったのに、他人事のようだった。漠然とした不安はあったが、実感出来なかった。他で固まっている生徒の中には、泣いている子もいた。
怖くなった私たちは、口数も少なく、ただ静かに座っていた。
誰かが「これがどうやら第三次世界大戦の始まりだって」と言う。
私にとっては、アメリカで始まったばかりの大学生活だった。カナダで英語研修を終え、アメリカの大学に入学が出来、一年生になったばかり。どんなキャンパスライフになるだろう、と不安と期待でいっぱいだった。
その矢先だった。
このまま、どうなるのだろうか。
ちらほらと、生徒が帰宅をし始めた。地下鉄が一部再開し始めたのだ。
私たちも重い雰囲気の解散をし、私は、家とは別方向の南に向かった。
地下鉄は、ソーホーの駅までで、それ以降は止められたままだったが、
私は、ワールドトレードセンターを見に行ったのだ。
ニューヨークに着いてから、学校が始まるまで、私はなるべくニューヨークの街を探索した。描いていたニューヨークの姿が、そこにはあった。
忙しなく行き交う人々、クラクションを鳴らしまくる車の間をすり抜けるメッセンジャー、地下鉄から地上に吹き出る熱した空気、道端で歌うパフォーマー…。
ソーホーで休憩し、道のベンチで座っていると、そこから天まで伸びているんじゃないかと思うほどのワールドトレードセンターが見えた。
ニューヨークの摩天楼と言われるように、この街にはそもそも高いビルが多い。それでも、ワールドトレードセンターは、頭一つ、いや二つ以上、それらを上回って群を抜いた高さだった。
初心者や旅行者には、アレが見えれば南、といった便利な目印にもなった。
カッコいいビルだった。
駅を降りると、
普段なら、騒がしくたくさんの車や人で溢れた道が、人っ子ひとりおらず、車も一台もいない。ただ真っ白なクズで覆われていて、おびただしい数の紙が散乱していた。
崩れて粉となったビルの破片と、オフィスから飛んできた紙類が散らばったものだと分かった。
粉を浴びて真っ白になった消防士が三人、無言で歩いていた。
チャイナタウンの通りまで歩いて、そこから先は、徒歩でも通行止めだった。
ソーホーやチャイナタウンから、必ずあの方向に見えた、あのビルの姿は、モヤの中にも見えなかった。
本当に、崩れたのだ。それを知った。
あの飛行機の映像が脳裏をよぎる。
「カミカゼと同じじゃないか」
そう思った。
チャイナタウンの通りでは、今までで嗅いだことのない匂いがした。
あまり吸ってはいけない匂いだった。
私は、黙ってクイーンズの家に帰った。
街は静まりかえっている。
あれほど暗いニューヨークは初めてだった。
明日からどうなる。学校は。私は…。
怖くなった。
大学に入学して間もない。仲良い友達なんかいない。
店なども緊急閉店をし、当時コーリングカードがなければ国際電話が出来ない時代だった。カードが手に入らず、日本には電話も出来ない。実際、混乱の中、電話線も混乱し、思うように連絡なんか取れなかった。
泣けてきた。私は自分の無事を知らせることすらできない。
幸いなことに、同じクラスにいるタイ人のクラスメートと連絡先を交換していたから、私はまだ1〜2回しか会ってないこの子へ意を決して電話をし、少し一緒にいてもらえないかお願いしてみた。ひとりで過ごすには、ちょっと耐えられない日だった。
快く承諾してくれ、この子もクイーンズ在住だったので、すぐさま駆けつけた。
日本人以外の留学生は結構家族や親戚と住んでいたりするもので、彼女のお家でもなかなかの人数がいてみんなタイ語で話していたのでちょっと戸惑ったが、パソコンでメールのチェックもさせてもらえて、助かった。
やはり、日本にいる家族や友達の方が情報が早かったらしく、たくさんのメールが届いていた。
タイ人の友達は私に、タイの音楽番組を見せてくれ、しばし現実を忘れるひとときを過ごせたことは、とてもありがたかった。
彼女は、その後、私のキャンパスライフで一番の友達になった。
数週間の間、学校は正式に閉鎖になることが決まった。
ニューヨーク市にある大学の爆破テロの宣言も出されており、当然の処置だったが、再開したとて、私たちはかなり不安の中通学することになった。
大学の爆破予告は単なるデマであったが、そういったいわゆる“噂”は、テロ現場にはつきものなのだ。人々の恐怖心が、ちょっとした話に尾びれをつけてどんどん広がる。そういうことだ。
最も、出席は事情により任意ではあった。
しばらくの間、ニューヨークは暗く、落ち込んだ、沈黙の街となった。
クイーンズからマンハッタンに入る最後の駅からは、マンハッタンが一望できる。ずば抜けて高かったあのビルのエリアからは黒煙がずっと流れていて、風下の住民はみな、避難となった。あの煙を吸ってはいけなかったから。
しばらく消えない煙を眺めながら、月日はゆっくりと過ぎていった。
コーリングカードを買い、日本の母と電話した時に、当然ながら不安な気持ちを伝えると、母は、
「今あなたは歴史的瞬間に居合わせている。きちんと自分の目でそれを見なさい。もちろん危ない場所に行くべきではないけど、誰しもが直にそれを見れる訳じゃない。それが与えられているのよ。」
と言った。
「帰っておいでよ」と言ってくれたのは母じゃなく、友達だった。
そんなスパルタな母ではあったが、海外が好きで、色々なものを見たり、あらゆる経験をしている娘を、誇りに思っていた。
事態が落ち着き、日本からの航空便が再開し程なくして、母はニューヨークに来た。
なんと、航空券が2万円だったらしい。
自分の目で、と言うくらいだから、自分も見たかったのもあるだろうが、なによりやはり娘を心配し、ニューヨークまで来る行動力は見習うものがあった。
テレビやその他報道では、
燃えているワールドトレードセンターと並んで、
真珠湾の写真がセットになっていた。
どちらも、「突然攻撃された」という訳だ。
硫黄島に星条旗を掲げている軍人の写真と並んで、崩れたワールドトレードセンターの瓦礫の上でも、今回は消防士が同じポーズを取った写真を撮り、それも並べて貼られていた。
「決して忘れない。我々は、我々の地を取り戻す。」といった具合だ。
私は、心にもやもやを抱えながら、その写真を眺めた。
日本人として、ミレニアムに真珠湾を出されるとは思わなかった。
後ろめたい気持ちがあった。少なくともその時は。
「テロ」という言葉は、その時はまだ、“アメリカでの出来事”を指すものだった。
ーーーーー
大学を終え、私はアメリカに残るか、日本に帰るかの岐路にいた。
テロがあったためビザが厳しくなり、例え就職の内定者でも、ビザの審査に落ちるといった事態が多発した。
泣く泣く帰国を選ぶほかなかった日本人の友人もいた。
大卒者は一年間の就活ビザがもらえるため、その時間を使いゆっくり考えた私は「だったら別に良いや、帰ろう」と思ったものの、なんだかもう一ヵ国挑戦してみたい気になり、ダメ元でフランスのワーホリに応募した。
大体、ワーホリというのは、自国に住む30歳以下の若者が応募できるものであって、海外在住者の応募を受け付けていない国も多い。フランスには、応募規定にそのような記述がなかったため、じゃあ良いんだろう、と、アメリカから応募した。
実は、私はフランスに興味がなかった。
大学では、専攻が美術だったため、美術史もたくさん学んだ。その中で、イタリアンルネッサンスが大好きだったのだ。フランスの絵画もたくさん学んだが、興味はイタリア一直線だった。
しかし、イタリアにはワーホリがない。
じゃあ、隣の国だからフランスでいいや、とかなり軽い気持ちでフランスを選んだ。
しかも、旅行ですら行ってもない国だった。
当時のフランスワーホリは、年間ほんの500人しか来れない、いわば選抜だったのだ。動機書を書いて、3回のトライ、多い人では5回目の応募でやっと来れたといった人も、当時は珍しくなかった。
ワーホリで有名なカナダやオーストラリアが、毎年1万人くらいワーホリを受け入れてるのと比べると、フランスがいかに少ないかがお分かりになるだろう。
フランス人はアメリカが嫌い、とよく聞いていたから、じゃあ、大使館にいる人間も同じようなマインドだろう、と、歴史の浅いアメリカでなく本場のフランスに行きたい、といった風に、なるべくフランスを上げる感じで書いた。
選考に落ちる人は、どうやらフランスが好きで好きでたまらない人が多いらしい。似たような勉強の目的も多く、そういう人たちはふるい落とされた。
私は、経歴がちょっと違ったためか、フランスに興味がないのがバレたのか、一発で合格した。
年に一度しか応募できないため、3回目のトライは3年を意味する。よほどの執念がないと何度も挑戦できない。
何度もチャレンジしてやっとこさ来れた人たちに、散々白い目で見られもしたが、そんなこんなで、アメリカから横移動し、フランスでの新生活が始まった。
フランスに引っ越してまもなく、スペインで列車の爆発事故が起きた。
フランス語が分からないまま、ただニュースの映像を見てとっさに、
「テロ?」
と私は言った。
それを聞くなりフランス人は、
「なんか、アメリカ人みたいなマインドね。」
と、少し呆れ顔をされた。
ニューヨークにいた時に、世界的に報道されたあの9月11日の事件以外にも、実はニューヨークを騒がせた出来事はいくつかあった。
そのつど、ニューヨークにいる人たちは、またテロか?と怯えた。
ニューヨーカー達は徐々に強くはなったのだ。何か起きて地下鉄が止まる。街も混乱する。以前ならぎゃーすか人々は騒いだが、もう黙ってどこでも徒歩で行く。いつの日か、街も人も元気を取り戻すことを知っている。
しかし、テロへの過剰反応は仕方がなかった。
それが、事態を目の前で目撃する、ということだと思った。テレビの映像を介してのニュースは、ただ事実を淡々と伝えるだけだ。
あの時の不安、恐怖、完全なる静寂、泣き声、逃げる人々、あの匂い…。
居合わせた者のみが直視し受け取るエネルギー。
あの日ニューヨークにいた者以外にとって、9月11日は他人事なのだ。
私は、ニューヨークより遥かに時がゆったり流れるパリで、それこそゆっくりとフランス語から勉強し始めた。
そして、2015年。
それは起きた。
パリ同時多発テロである。
私は、日本食のお店で働いていた。
マネージャーが一本の電話を受け取り、ものすごく焦った様子で、緊急事態発生により閉店すると言ってきた。その場にいたお客さんにも事情を話し、皆を帰すことになった。
人生で、まさかの二度目のテロである。
従業員も帰宅するはずだったが、どうやら従業員の多くが住む東側に集中して事件が起こっていることが分かり、状況が分かるまで店で待機することにした。
アメリカの時のように、缶詰になった。
しかし、今の時代ならインターネットで事件を追える。タイムリーな状況がわかる。それだけで私は気分がだいぶ違った。
私以外の従業員は皆、当然だがこんな事態は初めてのことだった。
事件を追っていると、アメリカのように、派手にビルを崩壊したとかいう感じではない。不謹慎だが、大きなテロではないんだな、というのが正直な感想だった。なにより、既に一度あんなものを経験していて、どこか冷静に見ている自分さえいた。
犯人は、店を数件襲い、武装したままどうやら移動しているらしい。
その舞台は、私の住むエリア。
しばらく帰らず様子を見るほかなかった。
何時間待っただろうか。それでも、犯人は捕まらないまま。
仕方なく、私はタクシーで帰宅することにした。
東に行くにつれ、徐々に人通りどころか、車さえいなくなってきた。数台パトカーを見ただろうか。その音がやけに響いていた。
静けさの中、タクシーはゆっくり進む。運転手も慎重になっていた。
映画「パージ」の始まりとでも言おうか。これから犯罪者が獲物を狙いにやってくる前に皆逃げて、ひと気が引いた街中、といった具合か。
どんな時間帯でも都市なら人が歩いているものだ。それが、あの時のニューヨークように、道路には誰もいない。まさに、静寂の中。不気味だった。
人々は家にいるはずなのに、その息さえ殺しているのかと思うほど、本当に音という音がなかった。
現代らしく、SNSでは、友達に私の「無事」を知らせることもできた。
複雑な気持ちになった。
なんとなくで選んだフランスだった。このゆったりとした優雅な街でも、テロを経験してしまった。
私は、母の言葉を思い出し、現場となったレストランへ足を運んだ。うちから徒歩圏内だったからだ。小さな花束を買っていった。
たくさんの人々が寄り添って、キャンドルやお花で溢れていた。
ふと見ると、窓に大きな銃弾の穴が二つある。
マジックで絵が足してあって、目に見立てた銃弾の穴から、涙が流れていた。
人々はすすり泣いていた。
私も、涙があふれた。
私が無事を知らせたSNSに、ある友達がコメントを残した。
「生きろ」
もののけ姫のキャッチフレーズですか、とちょっとおどけて見せたが、この友人はアメリカで同じ大学に在籍し、あの9月11日を経験している。
明日は我が身。それが、現実離れした言葉ではないことを知っていたのだ。
テロリスト達は、一部が銃撃をし、他の一部が自爆テロであった。
銃撃の実行犯も、ほとんどが身体に爆弾を巻いていて、銃撃の後に自爆をする方法が取られていた。
人々を混乱に陥れたテロ行為は、民衆を団結させるのに簡単だった。
いや、テロ行為を報じる、いわば「された側」の報じ方で、いくらでも敵対心を植え付けることが可能だった。
ニューヨークの時に掲げられた、真珠湾や硫黄島の写真同様に。
同時に、当時SNSで起こった連鎖反応は、私に違和感を与えた。
現場にいない日本の友達含む、世界中の人々がなんだか一致団結したような纏まり方だった。
された側なら、被害者じゃないか、と思うかもしれない。
しかし、同年の初めにあった新聞社の銃撃事件の時から、私にはこのテロ行為の背景に潜む、実行犯たちが生きてきた環境に注目していた。
純粋に、どちらかが悪で、どちらかが善なのではないんだということ。
フランスの社会における闇を、そこで見た気がしたのだ。
しかし、当時のフランスは、特定の「敵」のイメージを分かりやすく創り出さねばならなかったようだ。
当時のアメリカがしたように。
9月11日を機に、アメリカは“聖なる”戦いを仕掛けなかったか。
テロが、良い理由にはなりやしなかったか。
国民の意識を総動員するのに、あの事件は恰好だったといえる。
確かに、あの日の出来事はとても怖しかった。悲惨な現場を目の当たりにした。
フランスで同じような出来事が起きた夜も、やはり怖しかった。
パリで銃撃されたエリアは、いわゆる保守とは逆の思想の人々が多く集うエリアだ。彼らは犠牲になったが、果たして“聖戦”を望んでいただろうか。
フランスのメディアはこぞってテロリスト達を「カミカゼ」と呼んだ。
身体に爆弾を巻いて「自殺する」なんて、「狂った盲信者」と言われた。
分かりやすい、「狂った敵」のイメージが報道で溢れた。
現地に住む日本人でさえ、自爆テロというより「通じやすい」「言いやすい」という理由で、カミカゼと平気で言っていた。
そんな私も、2001年にあのビルに飛行機が突っ込んだことを、同じようにカミカゼだと思ったのだ。
しかし私は、ただ無知だったのだ。
私の心境の変化は、一つの古いビデオがキッカケだった。
映像には音声がない。代わりに音楽が入れてある。
その白黒の映像は、出撃直前の特攻隊のものだった。
“関連動画”として、当時勝手にオススメに登場したとて、なんら不思議ではない。とにかく、どうしてその動画にたどり着いたかはあまり覚えていない。
私は、衝撃を受けた。
私は、「カミカゼ」のことを何一つ知らなかったのだ。
真珠湾攻撃の相手が米海軍だったのと同様に、特攻隊の相手は米艦隊。
そう、無差別に民衆を攻撃している訳ではない。
特に、特攻が行われた時は、戦争末期で突然の攻撃を喰らった、訳でもない。
軍人同士の、戦争の中での戦いだった。
当時のアメリカでも、ここを鋭く指摘した人々は、わずかながらいた。しかし、こういった意見はかき消された。
私はフランスでは、美術の勉強はしなかった。
かなりゆっくり勉強する中で、美術への創作意欲は薄れて、何か日本に関係することをしたいと思うようになっていたので、今の大学に入り、日仏の翻訳から始めていた。
修士課程にいけば、好きなことを研究し論文に書いて良い。
私は、特攻隊を書くことに決めた。
日本人として、あのビデオの向こう側の若者が、今の若者となんら変わらない容姿をして、最期の別れを告げる。
10代、20代前半の若者。
これを、単なる美談にするつもりはない。
ただ、これだけは言える。
彼らは、テロリストとは決して同じではない。
日本人含む、海外の人が“カミカゼ”を狂った盲信者と認識して、テロリストと同一視していることを責めてはいけない。
彼らはただ無知なだけだ。きちんとした知識がないだけだ。
私が当時無知だったように。
だったら、その知識を、私が広げれば良い。
社会や民衆を、恐怖と混乱に陥れたテロ。メディアと同じ口調で「テロには屈しない」というメッセージを掲げている人を大勢見る。私は、二度もその混乱を経験した。だからこそ、思う。もう争いたくない。私たちはたった一つの悪に対峙している訳ではないはずだ。これが現代の戦争と言ってしまえばそれまでかもしれない。ならば尚のこと、私は戦争をなくしたい。
「誰しもが歴史的瞬間に居合わせない」のなら、居合わせた者として、メディアが伝える以上のものを私は見て知っているではないか。それを、私が与えられたのなら、そこにやるべきものがあるのかもしれない。
いつしか「テロ」という言葉が当たり前に聞かれる世の中になってしまった。
海外のメディアから、テロリストを指すあのカミカゼという言葉をなくしたい。
他の記事で書いたが、フランスにいる日本人から、日本のことをここでやっていると言うと、「それって将来何の意味があるの」と言われたことがある。特攻隊を勉強していることは、伏せた状態だったが、そういう目で見る人は多い。
日本のことを、わざわざフランスで、と確かにそうかもしれない。
でも、私は、海外の人の多くが、昔の日本人は狂ってた、と安易に思ってしまう環境は、彼らにとっても正直可哀想だと思うのだ。
人は、知る権利がある。賛同は個人の自由だ。でも、知識を得る機会を作ることなら、出来るかもしれない。
敵は、結局人の心の中にあると思うのだ。
敵のイメージを作り出し、それが自分たちの思想からかけ離れれば離れるほど、都合が良い。人々の頭の中にも、イメージが残りやすい。
情報に踊らされずに、自分の頭で、心で考える冷静さには、知識もある程度必要だ。
それに、神風特攻隊がイメージとして利用されれば、自動的に「日本人」もまた、“狂った”要素を持った民族として見られかねない。
そういったレッテルは御免だ。
私は、特攻隊の本当の姿に迫り、日本人が持っている精神や文化が、狂ったものではないということを知らせたいのだ。
これが、長く海外に住みながらも、日本の歴史 ー 特攻隊 ー を研究することを決意した、私のお話でした。
長い話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
意味ない、時間の無駄だ、と言われても、めげずに進んでいきたいと思っています。