孤独は悪いもんじゃない
修士課程に行くにあたって、ある先生が言った。
「研究は孤独よ。」と。
ある意味、一種のオタクの領域に入るのかな。
もちろん同じ分野を勉強している人は沢山いて、手を取り合えば良いじゃないか、とも言えるが、実際はそうでもない。
みんながみんなピンポイントで全く同じところを見つめているわけではない。
むしろ、全く別分野の研究者と「研究」についての悩みなんかをくっちゃべった方が、良い刺激になったりするもんだ。
結局のところ、手探りで、掴めるのか掴めないのか分からない賢者の石を探しに、ほこらの中を進んでいくドラクエのような感じだろうか。ドラクエなら仲間と冒険できるから、障害物を乗り越えて、時にゲームオーバーになりつつ一面ずつクリアしていくマリオみたいなもんかな。
私が初めて海外に出た1998年は、まだインターネットや携帯なんかが普及する前だった。現在海外に留学する学生とは、はっきり言って環境はまるで違う。例え携帯があっても、それは身近にいる人々との会話のツールであり、遠い日本と繋がるツールではなかったし、ネットのコンテンツもかなり初歩的で、日本のニュースなんか、せいぜい数件政治のネタと天気予報くらいしかなかった。
海外に出ることは、物理的そして精神的に、日本から隔離されることだった。
日本を出る前は、若かったし、自分ひとりで出来る!自由に生きてやる!という意気込みもあった。
しかし、海外に出て私が初めて感じたことは、
今までどれだけのものに守られて生きていたのか。
ということ。
自分ひとりで生きる?そんな気持ちすらちゃんちゃら可笑しく思えるほど、自分自身がちっぽけで無力なことを感じた。
私は、今までの人生、自分ひとりの力で生きていたことなんか、
一度たりともなかったのだ。
それに初めて気が付いた。
最近の留学生を見ていると、きっと日本での生活となんら変わらないことを一部そのまま海外でしているように見える。それは時代なのだ。良い悪いじゃない。だって、それが可能な世の中になっただけだ。
私は当時、文字通り、物理的にも、精神的にも、孤独になった。
孤独は寂しい。
だけれど、必ずしも悪いことじゃない。
なぜなら、今自分が立っている場所。
自分の能力。
自分が求めていること。
そして、自分が大切に思うことを、ありありと見せてくれる。
人は立ち止まり、自分を見つめることは大切だと心では分かっている反面、今のせわしない社会で、自分の心の声をゆっくり聞いている人はどれだけいるだろう。
先生が研究は孤独だ、と言った時、妙に理解できた。
それと同時に、覚悟をする気持ちも湧いた。覚悟せざるを得ないと言った方が的確かもしれない。その道のりは、生易しいものではないから。
人というのは、それぞれが並行して存在していると思うのだ。意識して交差させているんじゃないかな。誰かとの出会いで交差し、それを機に人は学んだりして、また進んでいく。
孤独な道のりで、舵取りは自分。
ドラクエで増えていく仲間を自分の中に培った能力の一つと例えれば、やっぱり人生はドラクエみたいなものだな。仲間が、次は右行ったほうが良いんじゃないすか、とか言ってくれないしね。
溢れる情報や、周りの声から一度少しだけでも距離を置いて、
自分の声を聞く機会があると違った自分に出会えるかも知れませんよ。
やっぱり、答えは自分の中にあると思いますしね。
なんか、ゲームの方のドラクエも久しぶりにやりたくなってきた。