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過去のわたしを救うのは、今のわたしとあなたの言葉
わたしは、わたしの話をすることが苦手。
それに気がついていたのはずっと前から。わたしが話をした後に相手から放たれる、乾いた「へえ、そうなんだ」というちょっとした呪いみたいな言葉たち。
「ああ、わたしはこの言葉を聞くのが怖いから、わたしの話をしたくないんだ」
そんな、言葉の呪いにかかっていたと気がついたのが、ここ最近のことでした。
今日は少しだけ、ちょっとしたトラウマの話をします。きっと気持ちが暗くなってしまうので、すこしでもいやだなと思ったらそっと閉じてくださいね。それで大丈夫。
わたしは昔から、両親だったり祖父母だったり、いろんな人の期待から外れた道を進んできました。
子どもの頃は不登校で、専門学校を卒業しても就職はしていないし、今はフリーターで作品を作っている。そんな「当たり前」から外れたわたしに興味を向けられることは昔から無くて、あるのは「大丈夫なの」という不安と同情だけでした。
わたしには姉がいて、学生の頃は賞をたくさんとっていたし、子どもの頃から夢見ていた職業に就いて、いまも新しい活動をたくさんしている。
そんな姉のことがわたしは大好きなのですが、やはり比べられることが多くて、みんなの興味の向く先はやはり姉でした。親や祖父母は「仕事どう?」とか「どんな作品ができたの?」と姉の話を聞いていて、わたしの記憶では自分に対して聞かれたことは一度もなくて。
たまに、自分から何かを話したとき、必ず返ってくる言葉が「へえ、そうなんだ」という言葉でした。わたしは、その言葉を聞くたびに自分には目を向けられていないんだと感じて、自分のことを話さなくなっていく。
そうして、この数年もそんな風に過ごして、ほとんどは相手の話だけを聞いて、何かモヤモヤしてしまったりしたことは自分の中で押し殺して、どんどん話すための言葉を失って。
ここ数年はもう、そんな感情に慣れていたのですが、最近すこし似たようなことがあって思い出してしまったので、ここに綴ることにしました。
わたしの存在が空気みたいに感じてしまう瞬間、それがわたしのトラウマだと、強く感じてしまったときに、すごく悲しくなってしまう。
そんな感情に気づいたのが、その瞬間で。
その話をしようか、うんうんと悩みながら大切な人に話したら「話してくれてありがとう、すごくうれしい。あなたの話をゆっくりたくさん聞きたいから、また話してね。」と言われて、こんなことを言ってくれる人がいるんだ、わたしの話を聞いてくれるんだと、少し呪いが解けたような気がしました。
いまわたしの周りにいる大切な人たち、SNSで話をする人たち、わたしの話をゆっくり大切に聞いてくれる人がいると知ったから、最近は話していくことに慣れていこうと思っています。
言葉の呪いにかかっていることを教えてくれて、少しずつその呪いを解いていこうと伝えてくれる人たち。それがわたしの陽だまりで、エッセイを書こうと思えたのもそんなやさしさから。
今まで押し殺していた感情たちに「今までごめんね」と伝えよう。そう決めて。
今この文章を読んでくださっている人たちも、そんな陽だまりのかけらのひとつです。やさしくて美しい光をさせる人、もしくはその光を受け取って反射させる人、みんな美しいから。
「ありがとう」と感謝の気持ちをたくさん伝えます。
だからまた、わたしはわたしの話をしどろもどろしながら話していこうと思います。話すのがちょっと上手くなってきたな…(ニヤリ)なんて思ってもらえたらうれしい。
そして、誰かの話を聞くことが好きなので、あなたの話もどこかで聞かせてください。ツイートでも、noteでも、ツイキャスとかでもなんでも。たまにひっそり見に行きますね。
では、また木曜日に。
穏やかな一週間になることを願っています。