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月明かりが照らす波間、わたしはその海が藍色だったことを知る
「自分の愛し方が分からないんです」
そう言葉にして伝えたことに、なぜだか自分ではっとしてしまった。ああそうか、わたしは自分の愛し方が分からないから、誰かを愛することに躊躇してしまうのだと。
例えば、パートナー、友人、SNSで話す人。
どれも愛に分類はなくて、何を話すのかどう表現するのかの違いだけ。特別感は持ちながらも、みんな結局は自分とは違う人間だからと理解していくことも愛。
わたしにはそんな人達に対する癖があって、それは何かがあるとすぐに身を引いてしまうこと。
大好きな人が仲のいい誰かと話していると、「自分はいなくてもいいか」と空気のように姿を消してしまうこと。
それによって、徐々に離れていった友人もいれば、それがきっかけとなって別れてしまった恋人もいる。ほんとうに良くない癖だなと思いながら、なぜそうなってしまったのかと考えてみていた。
前にも記事に書いた覚えがある。
わたしの存在が空気みたいに感じてしまう瞬間、それがわたしのトラウマだと、強く感じてしまったときに、すごく悲しくなってしまう。
-「過去のわたしを救うのは、今のわたしとあなたの言葉」より
単純な言葉にすれば、ヤキモチと呼ぶことができるかもしれない。ただ、かみ砕いているとまた少し違った感情を見つけた。
それは「例えばわたしがいま消えたとしても、この人にはいい友人がいるから大丈夫だ」という安堵。それがこの気持ちの正体だと気づいたのが、ここ数日のことだった。
わたしは子どもの頃からずっと、何でもなく消えてしまいたいと思っていたし、それは何年も経った今も変わらずに胸に刺さっている。まさにトラウマと呼ぶに相応しい感情だ。
その気持ちがずっとあるからこそ、自分の素晴らしいところは見つからないし、ましてや自分を愛することはとても難しい。そう気がついてからというもの、ずっと自分の愛し方とは何かを考えていた。
幸せな一日を過ごしたとしても、そんな考えに囚われてすぐに自信がなくなってしまう。
そうしてパートナーへ伝えたのが冒頭の一文。
そう考えてしまうことはよくないと思う、と言いながら続けてくれた言葉を、わたしはこの先ずっと記憶し続けるだろう。
(ここに載せることはとても気恥ずかしいのですが、語る上で大切な言葉たちなので載せておくことにします。)
「あなたの美しさはわたしがたくさん話してあげる」
「あなたが幸せの記憶を溢してしまっても、毎日わたしに恋できるようにプロポーズしてあげる」
わたしが手渡された愛を忘れてしまうことに対して、そう伝えてくれたあなたにわたしは何回でも恋をするだろうと、そう強く想った。
自分では見つけられない自分の美しさの光を、あなたが反射して伝えてくれることで、わたしはその光を目にすることができる。
まだわたしに見えている光はとても小さくて微かなものだけれど、いつかずれて重なる光が明るさを増して、暗い海を照らすための月明かりになる。
暗闇だと思っていた海に光が差して、わたしはそこに美しい藍色を見る。
そんな光を見つけながら、また新たな一日を過ごしていこうと思ったのでした。
詩を書くときも、写真を撮るときも、絵を描くときも、そんな光をより生み出していきたい。
今日は記事っぽく、すごく真面目な感じで話していたのですが、これはこれでいいのかな。
たまにはこんな自分を見つめ直すような記録があってもいいのかなと思います。
自分のことやパートナーのこと、たくさんの赤裸々な話をして少し恥ずかしいのですが、愛を描くためには書き出すことも必要なので…。
といったところで、今日はこのくらいでおわりです。
また、木曜日に。来週は雨が続くようなので、陽だまりというよりも水たまりかもしれません。
ではまた、よい一週間を。