空間をエイムすることについて

はじめに

 私の最初の理論、最初の俗説との対峙、最初の先入見との格闘は「クロスヘア不要論」という、今から考えれば、説明不足な、明らかに奇をてらった、不十分な考察に裏打ちされた早合点の、出来損ないの理論だった。しかし、その奇妙で整合の取れていない考察の羅列は、明らかに何かを語っていた。それだけではなく、特定の問題について、何か意味のある先進性のようなものを持っていたし、何よりも、深遠な雰囲気を漂わせ、論理実証的な魅力を持ち、そして何か重大な発見の伏線を匂わせていた。少なくともかつての私にはそう思われた。
 今の私の考えと大きく異なるのは、エイムに関する理論がエイムの上達を助けると考えていたことであろう。かつての私は、クロスヘア不要論を信用することとプレイヤーの上達の間には関係があるはずだ、という思想を持っていた。エイムの物理的過程だけでなく心的過程も、エイムに対して何かしらの影響を与えるはずだ、あるいは、与えなければならない、と考えていた。しかし、そもそもこのような言語化は為されないまま、ぼんやりとした主張にとどまり、その先に潜む無限後退の存在に気づかなかったことは事実であり、その点において、かつての私は誤っていた(このことについては、拙文『エイムに関するメモ』の§1fを参照されたい)。
 エイムに関する理論がエイムを上達させるかについては、「確かではない」と答えたいと思う。あるいは、「ある場合においてはそう、また別の場合においてはそうではない」と答えたいと思う。これが「結局のところ何も語っていない」ということは承知の上で、そう答えるのだ。私のようにエイムについてあれこれ回りくどい考察を巡らせる者は、理論の有用性を擁護しなければならない立場にあると思われるかもしれない。しかし、私は特別そのような必要性を信じない。なぜなら、私はエイムについての考察から何か新しい、「役に立つ」発見をしたいのではないからだ。理論に先進性のようなものを持たせたいわけでもない。今の私たちが当然のように行っているエイムについて、きちんとした分析を行い、エイムが本当のところ、「一体何であるのか」を理解したいという、既存の解釈に対する純粋な知的不満と、そこから必然的に発生する「完全な説明」への知的好奇心を原動力に駆動しているのである。私はいわば、説明の機械なのだ。機械というのは、原動力さえあれば理由なしに駆動するものではないだろうか。

クロスヘア不要論と空間

クロスヘア不要論とは何だったのか

 クロスヘア不要論自体は、私が最初に提唱したものでもないし、それまで世の中に知られていなかったわけでもない。クロスヘアなしでエイムすることが可能であることは既に実証済みの、「確かめられた」ことだった。私の疑問は、「なぜそのようなことが可能なのか」ということだった。決して「どのような練習をしたらクロスヘアなしでエイムすることができるようになるか」という種類の疑問に答えようとしたのではない。なぜなら、クロスヘアなしでエイムすること自体は理屈を必要としなかったからだ。私にとって、摩訶不思議で、直ちに説明を必要とした疑問は「クロスヘアなしでエイムすることが可能であることをどう説明するか」というものだった。
 そして、私がそのときに与えた説明が「空間をエイムする」というものだった。今から省みると、しかし、この説明は不十分だった。当時の私は空間の座標を用いて説明をしようとしたが、表現に困ってしまったので、説明をおざなりにしたように思える。

空間をエイムすることとは

 私たちの視界は立体的である。「それは私たちが二つの眼球を持っているからであり、片目で見れば世界は平面的だ」という意見は傾聴に値しない。言うまでもなく、私たちは空間が空間であることを知っている。確かにそれはある意味では信念であるけれども、それについて哲学的な考察をすることは、ここでは必要ない。私たちは片目で世界を見たときでも、世界に奥行きがあり、私たちが歩けば、世界は移動するということを知っている。ジャンプしてみると世界に高さがあることも確かめられる(たしかに、これもある意味では信念である)。私たちは、自分の背後にも同じように空間が広がっていると信じている。私たちはそれを、特別な必要がないとき以外は、疑わない。私たちは、背後から自分を呼ぶ声がしたので、振り返って声の主を探すときに、本当に背後に空間が広がっているかを疑ったり、「自分の視界の中心をどこに移動させればよいかわからないから、背後にある何かに注目することはできない」などとは言わない。そのようなことをする代わりに、私たちはただ振り返って見るのである。
 ゲーム内の空間にも同じことが当てはまる。ここでは画面の存在を前提にしている。そして画面の中に表示された情報が自分にとっての視界なのである。なるほどたしかに、画面の外については、視覚的な情報は与えられていないから、不確実であるといえる。注意しなければならないのは、この考え方は、誤った結論を帰結する危険性をはらんでいるということだ。「画面の端に表示されている空間の情報とそれと隣あっているが、表示されていない画面外の空間の情報は、その有用性において、大きく異なっているのだ」とか、「画面外の情報については、私たちは何も知らない」という誤謬である。この種類の誤りは、私たちの空間の認識能力が可能にする様々なことを説明できない。たしかに、画面外と画面内には、明確な境界線が存在する(そして、これは正しい)。しかし、私たちはその境界線を必ずしも明確には認識していない。
 たとえば、画面の端に表示されている敵にエイムを合わせようとしていたら、その敵が画面外へ移動してしまった、と想定してみよう。この場合に、「私はもう、その敵がどこにいるのか知らないし、存在しているかどうかも知らない。だからエイムを合わせることは不可能になってしまった」とは、私たちは考えない。私たちは、ただ画面の端に表示されていた敵をエイムするときよりも少し大きく視点を動かすだけなのだ。そして、このことは、正反対に極端な場合にも拡張される。例えば、自分の背後をエイムする場合にも。
 先ほどの例のどこが極端なのかといえば、画面外の領域ではあるものの、画面が映し出す自分の視野から、空間的に最も近い領域についての説明であったことだ(画面内の空間と画面外の空間は隣り合っていた)。しかし、今度は反対に、自分の視野から空間的に最も離れた領域について、同じように説明しようとしている。自分の視線に対して180度回転した先の空間、つまり背後の空間についてである。この際に、間違った結論に達しようとしているのではないかと私たちは疑いたくなる。「空間同士が隣り合っていた場合と同じように、背後の空間について考えることは、過度な一般化ではないか」といいたくなるのである。
 だが、「近い」と「離れている」の区別はどのように決めれば良いのか。この二つの概念の区別に、明確な境界線は存在するのか。あるいはこのように反論することも可能だろう。「空間同士はいつも隙間なく隣り合っている。それはつまり、全ての空間同士は隣り合っているということを意味しているのではないか」などと。そして、この問題について考えるとき、私たちは哲学の袋小路に足を踏み入れているのだ。「近い」と「離れている」の区別を、「エイムするのが簡単であるか、難しいか」で区別しようとするかもしれない。他にも様々な方法が考えられるだろう。しかし、そのどれも本当にこの問題を解決することはできない。
 この問題に頭を悩ませるとき、私たちは空間の重要な側面について考慮するのを忘れている。というのも、私たちは、xとyという二つの軸で空間を把握することができるのだ。私たちが視線を上か下に向けるときには、すでに背後の空間が見えている。自分の視線に対してx軸方向に180度回転した先の空間は、y軸方向に少し回転した先の空間と一致するのである。私たちにとって背後の空間というのは、最初に想像していたほど離れては居ないのだ。私たちは、空間を空間のまま認識することができる。その能力が背後の空間にエイムをすることを可能にしているのである。平面のように画面上の情報を認識しているとすれば、y軸は上下ともに両端で区切られており、背後の空間は正面の空間から独立しているように思えるだろう。しかし、空間を空間として認識する場合、背後の空間は正面の空間と隣り合っており、エイムする対象として困難なものではないのだ。
 もちろん、これは説明の一つに過ぎない。他の説明の仕方を考えることは容易い。しかし、ここで問題になっているのは、これらの説明の基礎となるのは、やはり「空間の認識」であるということだ。
 それでも、これだけでは「私たちは空間をエイムしている」と主張するのには不十分だと思われるかもしれない。じっさい、私たちは他にも様々な説明を試みることができる。ある人は、「私たちは角度(距離)をエイムしているのだ」と言うかも知れない。また、ある人は、「私たちは空間をいわばパノラマ写真のように認識している。だから私たちは空間ではなく、あくまで平面をエイムしている」と言うかも知れない。私はそれぞれに反論を用意することができる。たとえば、「角度(距離)をエイムすると考える場合、fov(視野角)を変更した際にエイムが全く不可能にならなければならない」とか、「パノラマ写真のような平面をエイムする場合、自分が移動しながらエイムすることが可能であることについて説明することができない、できたとしてもその説明は煩雑になりすぎる」などと。しかし、このような論争は問題の解消を全く助けていない。なぜなら、角度(距離)説やパノラマ説などは、全くの誤りであるというわけではなく、むしろ、私たちのエイムの一部を説明しているとするほうが正しいだろうからだ。とはいえ、それらの主張は私たちのエイムの全ては説明できない。そして、空間説は全てを説明できるかのように思われるのだ。

空間説の哲学的問題

「完全な説明」について

 空間説と相反する様々な説明は、画面という平面に映し出された情報を平面のまま認識しようとする傾向に根ざしている。クロスヘア信仰にもこの傾向が見られる。これらは高次の説、いわば「平面説」に収斂される。だが、これらの説は全く誤りというわけではない。平面説はエイムの一部を説明している。ただ、それが全てを説明しないだけだ。私たちは確かにクロスヘアを見ながらエイムする。そして、その場合についても、私たちは空間説を持ち出すことができる。「クロスヘアは空間をエイムするのを助けているのだ」などと。しかし、実際に私たちがエイムするときに、空間説の説明よりも平面説の説明のほうがよく当てはまっているという場合があるのではないか。空間説は全てを説明できる。しかし、全てが空間説によって説明されなければならないというわけではない。

平面説と空間説の共存可能性

 この哲学的な問題は、私たちの態度に端を発している。私たちは既存の解釈に不満だった。既存の解釈が説明できない事柄について説明することができる、完全な説明が可能なように思われたからだ。そして、この場合の既存の解釈というのが「平面説」であり、より完全な説明というのが「空間説」だったのだ。だから、完全な説明によって、あらゆるエイムの説明を覆さなければならないと考える傾向は確かに存在した。幸いなことに、当時の私もこれが誤っているということには気づいていた。そこで私はこう説明したのである。「ある場合には、人は平面を認識するときの仕方でエイムを行う。また、別のある場合には、人は空間を認識するときの仕方でエイムを行う」と。しかし、これは期待外れな結論だったのだ。だから、これ以降の私はクロスヘア不要論や空間説について特別取り上げることはしなかった。
 そして、この頃から私はエイムに関する理論は本当にエイムの上達を助けるのかという疑問に取り憑かれるようになっていた。そして、私の興味は「そもそも上達とはいかにして可能か」についてへ移っていったのである(このことについては、前掲の記事が詳しい)。

空間説は役に立つのか

心的過程とエイム自体

 エイムの過程についての説明を始めると、あまりにも議論が複雑になり、誰も読まない、あるいは、読むことができない文章になってしまう。だから、この問題について語るときは、語り口をゆっくりにし、慎重に言葉を選ばねばならない。
 空間説について理解をした上でエイムするというのは、空間説について理解せずにエイムする場合とどのように異なるだろうか。エイムがより良くなるかもしれないし、エイムは全く変化しないかもしれない。前者の場合に人は「空間説は役に立つ」と言い、後者の場合に人は「空間説は役に立たない」と言うだろう。この前提に従えば、空間説は役に立つのかという疑問に対して私は、「どちらでもない」と答えなければならない。
 「エイムがより良くなる」ということが何を意味しているのかについて私たちはよく知らない。このような問題について考えるときに、競技エイムのスコアなどを持ち出そうとするのは言うまでもなく悪い傾向である。エイムが上達するということについて、明晰な説明は不可能だ。したがって、定義的に「エイムが良くなった」と決定したとしても、それの原因をエイムの過程に求めることはできない。
 私たちがある程度の確かさを持って言えることは、「エイムの心的過程が変わった」ということだ。ただし、それが特別な意味を持つとか、エイム自体に関わるとか、エイムの上達に関わるとか言うことは、確かさに欠ける。

空間説とその理解

 私たちがクロスヘアなしでエイムするときの心的過程について考えると、「そこには空間説の考え方がなければならない、あるいは、隠されている」と言いたくなる。あるいは、画面外の敵にエイムをするときの心的過程にも、「空間説の考え方があるはずだ」と言いたくなる。なぜなら、それらのエイムには妥当な説明が必要であり、その説明こそが空間説であると考えるからだ。しかし、それらのエイムは「空間説を理解していること」とは関わっていない。そこにあるのは、「空間説に準ずる考え方」という心的過程であり、「(私が提唱する)空間説の理解」という心的過程ではないのだ。これは、あらゆるエイム理論について拡張できる結論であり、理論家たちにとって絶望的な結論であろう。

おわりに

 やはり、私はエイムの理論はエイムの上達を助けるとは思わない。だから、空間説(の理解)は役に立たないと結論づけよう。しかし、「ある種類のエイムをするときには、必ず空間説、あるいはそれに準ずる考え方が、場合によっては知らずのうちに、あるのではないかと信じている」という立場を取ろう。しかし、これは少し考えれば直ちにわかることだが、確かめようがないことなのだ。だから、単なる信念に過ぎないし、特別な意味を持つわけではない。しかし、私は少なくとも、これら一連の考察とその結論がエイムの解釈として、既存のそれよりも優れていると思うし、これらの説明に興味を持つ者がいてもおかしくはないと思う。そういった信念に基づいて、休日を返上してこの文章を書いている。この文章に漂う絶望感は、今や私の生活の広範に渡っている。
 結論とはまさに行方不明になった子供のような存在である。多くの人が血なまこになって探すが、いちど見つかってしまえば、もう誰もその子に関心を寄せない。なぜなら、多くの場合、その子は一人の平凡な子供に過ぎないのだから。


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