謙虚な知的孤独は深刻である
なぜ私は孤独なのか
私の頭はとにかく変である。ある人は私を天才と呼ぶし、また別の人は私を愚かだと言う。私はしばしば、私のことを愚かだと言う人を愚かだと思う。私は優れた能力を持つ人で、私のことを愚かだと言う人にまだ出会ったことがない。
私は会話が下手だ。何を話せばよいのかわからない。私には話したいことがないし、相手が話すことにも興味がない。「そんなの、みんな一緒だよ。みんな友だちに話題を合わせているんだよ。」とあなたは言いたくなるかもしれない。だが、私は話題に文句をつけたいのではない。私は、何かに精通している人の話を聞くのが好きだ。普段から物事を深く洞察しているんだなあ、と感じるような話を聞かせてくれる人と話すのが好きだ。その際に、その人の考察の対象が何であるかはほとんど問題にならない。ところが、そのような人に現実で出会ったことはいまだかつてない。私の会話相手は書物の中にしかおらず、もちろん会話というのは擬似的なものなのだから、会話相手は現実世界には存在しない。では、それらの本の著者と、私が知り合ってきた人々との間にはどのような差異があるのだろうか。それはおよそ自明だろう。それは知的な差異だ。
いくつかの好運が私を知的に優れた人と巡り合わせたことがあるが、それらの人々が選ぶ話題は極度に専門的であり、また日常生活から離れた事象を扱うことが多いため、会話というよりは自分の専門を紹介しあうようなことに留まる。それはそれで独特に愉快なのだが、やはり会話とは異なる。そのため、そのような人々と頻繁に会って会話を楽しむということはしない。私は、主に日常生活に関する考察を共有したい。
私は自分の専門的な考察の対象についての学術的な対話を行いたいとか言っているのではないのだから、私は他者の持ちかけてくる話題にケチをつけているわけではないということを理解してほしい。むしろ、私は日常的なことについて話したい。
なぜ私は孤独なのか。それは私が知的に孤立しているからだ。だが、それは思い上がりではない。私以上に能力に優れ、学問に秀でた人々にも、それぞれ専門があるように、私には私の望む会話が存在する。私と同じくらいの知性を持つひとはおそらくたくさんいるし、私よりも優れた知性を持つ人々を私は数多く知っているし、私の知人にも、私よりも優れていると私が考える人が数名いる。それでもやはり、私と同じ知的な興味を持つひとに、まだ出会ったことがない。
私は私の潔白を証明したい。私は、「私が賢すぎるゆえに友達がいないのだ」と言っているのではない。「私が対象に興味を持つ仕方で、何かに興味を持つ人に出会ったことがない」というのが正確な表現だと思う。それでも、これはれっきとした知的孤独だと言える。この種類の孤独は、知的好奇心に関わる事柄が原因で起きているからだ。
本当の孤独
私には、知人と呼ぶことにやぶさかでない人が数人いるが、すすんで友達と呼びたくなるような人はまだいない。恋人はもちろんいないし、この先もできない。家族とも考えが合わない。私は愛されたことがない。
会話が成り立たなければ、私の考えを他人に伝えることもできない。だから、私を理解している人は私しかいない。私の家族は、私と多くの時間を共有しているがゆえに、すすんで私を理解しようとするし、また理解したつもりになっている。しかし、その努力がかえって誤解を生んでいる。家族は、家族愛に特徴的な仕方で私を愛しているが、その愛の対象は誤解に基づいて想定された人物像である。だから、厳密に言えば私を愛してはいない。彼らは私を誤解している。
私は、「私の気持ちを理解してほしい」というような欲求に特徴的に現れる、理想的かつ包括的な相互理解を望んでいるのではない。少なくとも、私がどのような人物で、どのようなことに興味を持ち、どのような生活を送っているのかを理解してほしいだけだ。それは、作家が物語の登場人物の描写をするときに描くところのそれに比較されるような水準での理解である。けっして完全ではなく、現実の私の思考には対応しておらず、ときに誤解を含んでいるが、会話をするためには十分に正確な理解である。しかし、私の知人たちのほとんどは、私を十分に理解していないか、そもそも私の望む会話を行うための素質に欠いている人々である。
SNSの孤独
最近、私はツイッターで活発に発言することをやめた。私が140字で何を言っても、誰も理解しないからだ。私も、SNSで出会った他者のことを理解できていない。やはり140字は十分とは言えない。もちろん、長い期間にわたってある人の投稿を見ていれば、その人の考えを少しは理解できるかもしれない。しかしそれは、その人の考えとその人の投稿、その人の投稿とあなたの理解の間に、一本の思考の糸が紡がれていることを前提とすればの話なのだが。そして、私はそのような前提を受け入れたくない。SNSでの私の振る舞いは、実際の私の思考とは対応していないことがしばしばである。自分自身がそうなのであるから、他者においても同じであることがしばしばだと推論することは、この場合には妥当だと思う。人格というのは、本人の理解にとっても、他者の理解にとっても、およそ宙ぶらりんである。発言や行動と、それによって引き起こされた結果の間にあるような対応関係は、人格の場合には存在しないと思う。だから私はSNSでの親交を、コミュニケーションと呼ぶのは間違っていると思う。SNSにあるのはただ、振る舞いとそれによって引き起こされた結果、その結果の時間的共有だ。私はそれを会話に代表されるようなコミュニケーションとは区別したい。
深刻な孤独
私の孤独感が、私が中学生のころに感じていた孤独感のような、単なる傲慢と思い上がりに基づいているものであったならば、事態はもっと良かったと思う。私の孤独は深刻である。相手に賢くあって欲しいと要求することよりも、もしかしたら、困難な要求なのかもしれない。私が対象に興味を持つ独特の仕方で、何らかに興味を持ってほしい。この欲求は、大学で新たに知り合う人々に要求するには、極度に困難すぎるし、すでに知り合っている人々に要求するにも、やはり唐突すぎると思う。
私の知的孤独は謙虚な孤独である。それゆえに私の孤独は深刻である。誰かが私の手を引いて、私というハエをハエ取り壺から出してくれる日を、ただじっと待つしかないのかもしれない。