エイムの分類学の基本的な枠組みについて

はじめに

 私がエイムの性質そのものに関する記述的理論に注目しはじめたのは、二◯二一年ごろだった。競技エイムに取り組むうちに、シナリオごとに異なる意識を使い分けてエイムすることが、スコアの向上につながることを不思議に思い(不思議だなあ、というポジティブな感情というより、そんなことはおかしい、というような疑念だった)、エイムには種類があり、全てのエイムの種類を一つの理論で説明することはできないのではないか、という問いにたどり着いたのである。こうして、エイムの方法論的な試みには限界があるから、エイムそのものがどうなっているのか、エイムのあり方を調べなければならない、と考えるようになったのである。それからRyanguru氏の動画に出会うまでは、ずっとエイムのあり方をあれこれ考えていた。Ryanguru氏の動画を見てから、言葉にしてこなかったが、ずっと頭の片隅にあったことが次から次へと意識レベルに表出してきて、それはエイムの分類学という新しいエイム理論のあり方を提唱するという思考として出現したのである。

エイム理論とそれらの非両立

 FPSゲームが発展するにつれて、「エイムの仕方」や「エイムのあり方」に関する考えを提唱する者が現れてきた。この区別は、エイムの方法論と、エイムの記述的理論として現れるから重要である。彼らの理論は、互いに非両立であることがしばしばであった。たとえば、ある人の説明を受け入れると、別の人の説明が、方法論として役に立たないもののように思えたり、記述的理論として間違っているように聞こえたりする、ということである。
 より具体的に言えば、ある人は、「クロスヘアをよく見ろ」と言うが、別の人は、「クロスヘアがなくてもエイムすることができる」と言う。ある人は、「すべてのエイムは視覚に基づく」と言うが、別の人は、「視覚に依らないエイムの種類が存在する」と言う。ある人は、「感度は関係ない」と言うが、別の人は、「感度を身体で覚えることが重要だ」と言う。
 提唱者の実力を比較して、強い方の提唱者が言うことを信じようとする人々はたくさんいるが、そのような態度は誠実とは言えない。上手いプレイヤーは間違えないということの確実性はどこにもない。そして、活躍しているプロゲーマーや競技エイマーが口を揃えて同じことを言うかといえば、むしろ、スタイルは多様であり、言っていることが異なることもよくある。では、こうした問題について、私たちはどのように考えるべきなのか。私がエイムの分類学に着目した理由は、まさにこの問いに答えるためなのである。

なぜ、どうやって、エイム理論を考えるのか

個別絶対的な説明とそれが提唱される背景

 エイムの仕方やあり方に関する理論を打ち立てようとすることには、特定のモチベーションがあると考えてみる(この想定は妥当だろう)。たとえば、方法論を考えるということは、「特定のエイム(あのエイム)をするためには、どうしたらよいか」を考えることであり、記述的理論を考えるということは、「特定のエイム(あのエイム)がどうして可能なのか」を考えることである。つまり、エイム理論の考案は、「ある特定の種類のエイムを(方法論的に、あるいは記述的に)説明したい」というモチベーションがあって行われることだ、と考えるのである。このように考えると、理論同士が互いに非両立であることの理由は、異なるエイムを対象として、異なるモチベーションに基づいて考案されたものだからである、と言える。
 以上のことを踏まえると、過去に提唱されてきたさまざまなエイム理論には、それぞれ利点があるはずだということになる。理論の中で説明されていることに妥当性がある限りは、うまく説明できるエイムの種類とうまく説明できないエイムの種類があってもよい、と考えるのである。このように考えると、個別のエイム理論に関して、「このエイム理論は、どの種類のエイムを対象にした理論なのか」を明確にすることが非常に重要であるように思えてくる。逆に言えば、「この種類のエイムについては、どの理論で説明するのがよいか(誰の言うことを聞けばよいか)」を考えることが重要であるということになる。まるで、病気に対して薬を処方するような仕方で、エイムの「症状」から「病気」を特定して、それに効く薬(理論)を開発、処方する、というようなエイム理論の「役割」が見えてくる。このようなエイム理論の役割のあり方を「処方箋モデル」と呼び、処方される薬としての理論(説明)を「個別絶対的な説明」と呼ぶ。他の種類のエイムには効かないが、特定の種類のエイムには効く、という意味で個別的であり、したがって、そのエイムの種類については、他の説明を加える必要や必然性がない、という意味で絶対的である。ただし、他の説明が不可能であるわけではないため、絶対に覆らないというわけではないということには注意が必要だ。あくまで、他の説明が不要であるという程度の意味で捉えてほしい。

処方箋モデルの限界とエイム理論の今後

 処方箋のようなエイム理論の役割には限界がある。なぜなら、私たちは、エイムにはどのような種類があり、どのような区別があるのか、ということについて、ほとんど考えてこなかったと言っていいからである。繰り返し医学における比喩を用いれば、「どのような病気の種類があり、なぜ発症するのか、なぜ特定の薬が効くのか」というような病気そのものについての研究をする代わりに、「とりあえず目の前にある症状を抑えるための薬」の開発ばかりしてきた、というような初期段階の医療であると言えよう。しかも、その薬というのは、「なぜ効くのかはよくわからないけど、前に自分で試したときには効いた」というような、個人の経験に基づく、怪しげな薬であることも珍しくない。これでは、「フリックエイムに効く理論なのに、この人の症状は治らない」というようなときに、処方箋モデルが機能しなくなってしまう。これは、「フリックエイム」という大きすぎる分類に一つの薬を処方していることが原因であると考えてよいだろう。より細かくエイムを細分化して、その人が改善したいと考えている、特定のエイムに効くエイム理論を処方しなければならない。
 処方箋モデルが機能しなくなることの好例は、「下手なら練習しろ」というようなアドバイスである。これでは「下手なのは下手だからだ(練習してないから)」と言っているようなものだ。「あなたが発熱しているのは悪魔が取り憑いているからだ。祈りなさい!」と医者が言いだしたら困るだろう。下手なことには原因があり、理由を「下手だから」で片付けてはいけない。そして、原因の解決を、闇雲に練習することにまかせてはいけない。もちろん、練習は重要ではないということではない。原因を特定し、それを解決するためにどのような練習をするのかを明確にしなければならない、と言っているのである。
 従来のエイム理論は、もっぱら方法論的なモチベーションに基づくものであり、私たちのエイムのあり方やその性質について考えるような記述的理論は少ない、というのが現状である(方法論的研究を否定する意図は全くないことに注意してほしい)。では、エイム理論全体の今後を考えるとき、未来の「エイム学」はどのような姿に発展しているのが望ましいだろうか。今まで通り、ゲームを職業としているようなプレイヤーやコーチたちが、各々自分の経験に基づいて個別絶対的なエイム理論、エイムの方法論を生み出していくことは続けつつも、エイムそのものについての性質を考える記述的理論の発展や、それら記述的理論に基づいてエイムの種類を分類、整理するような、「包括的な説明」を可能にする新しい種類の理論の発展することに期待しなければならないだろう。重要なのは、処方箋モデルがうまく機能するために包括的な説明が必要だ、ということである。しつこいようだが、医学の比喩を用いれば、従来どおり薬の開発を進める薬学と、それを根底で支えている、人間の身体と病気そのものを研究する生理学、その他さまざまな分野が互いに影響を与えて発展したこのとの集大成として、医学は成り立っている。エイム理論も同じように、個別絶対的な説明だけを扱うのではなく、それらの個別的なエイム理論を統合してエイム全体を説明するような、包括的な説明を可能にする体系的な研究を進める必要があると、私は主張したい。

おわりに ―エイムの分類学の方法論的な帰結―

 エイムの分類学はどんなふうに人々のエイムの上達に寄与するのか、どんなふうに役に立つのかを紹介してみようと思う。エイムを細分化して考えていくと、次のようなパラドックスが生まれる。
 上級者と初心者のエイムには何か違いがあるはずだ。この差異に注目して「良いエイム」と「悪いエイム」に区別するとしよう。初心者がエイム練習をして上達し、良いエイムができるようになる、ということはどういうことだろうか。「良いエイム」と「悪いエイム」は、異なる二つのエイムであり、それは「フリックエイム」と「トラッキングエイム」が異なる二つのエイムであるのと同じように区別される。つまり、下手な人は「悪いエイム」の練習をして、「良いエイム」を手にいれたことになるが、それは、「フリックエイムの練習して、トラッキングエイムが上達した」と言っているのと同じくらい不思議なことである。これを「上達のパラドックス」と呼ぶ。
 このパラドックスの解消にはさまざまな方法が考えられる。たとえば、エイムとは普遍的な概念のことで、エイムの区別は見かけ上のものにすぎないから、フリックエイムの練習をしてトラッキングエイムが上手くなることも、本来はおかしなことではない、というような観念論的な方法である。もちろん、これは事実とは異なる。もはや説明するまでもないだろう。哲学ではこのような説明を「世界を失っている」として批判することができる。
 では、このパラドックスは我々に何を語っているのか。それは、上達するということは、一種の「悟り」に至ることで、今までしていたエイムの種類を破棄して、違う種類のエイムを始める瞬間が存在するということだ。あなたが今しているエイムの延長線上に「より良いエイム」があるのではなく、悪いエイムと良いエイムの間には飛躍が存在しているということだ。つまり、あなたが飛躍的にエイムを上達させるためには、何よりもまず今のエイムをやめなければならないということだ。注意するべきなのは、理にかなった良いエイムをすでに手にしている人たちは、大きな飛躍をする必要なく上達することができるということだ。しかし、もしあなたが初心者ならば、「悪いエイム」の練習を続けることには限界があり、「良いエイム」を手にするためには、かならず飛躍しなければならないということである。このことは、上達していくにつれてエイムの成長が収束する現象や、上級者がエイムコーチングを受けるとエイムの成長が再開する現象に関する記述的な帰結とも言えるし、エイムの上達に関する方法論的な帰結であると言えるだろう。
 この記事を読んで、「どうしてそんなに面倒くさく考えるんだよ」と言いたくなったかもしれない。その疑問に答えるために、この言葉で記事を締めくくろうと思う。この言葉は、私が過去に投稿した「エイムに関するメモ」からの引用である。
 「回り道をすることが誠実なのではない。回り道をする必要があると真剣に思うとき、人は誠実になるのだ。必要のない回り道をする者は不誠実だ。」
 私は回り道をする必要があると本気で思っているし、じっさい、ある程度妥当だと考えている。私はエイムについて誠実でありたいのである。


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