私は「私用言語」モノリンガルである
本稿は章立てすることもない、メモ程度の文章である。過度な期待はしない方が良いかもしれない。
私は日英2ヶ国語の話者である。世間ではバイリンガルなどと呼ばれ持て囃される類の人間かもしれないが、実際には英語を喋ることができる日本人は星の数ほどいるということを、私は忘れてはいない。
言語を構成する基本的な要素とは一体何であろうか。文法か?発音か?それとも全く別の何かだろうか?
日本人のあなたが同僚に挨拶するとき「お疲れ様」と言いたくなるのは自然な衝動だろう。「お疲れ様」をさらに日本語訳すると「あなたはお疲れ様です」となる。さらに日本語訳すると「あなたは疲れています」になる。そして「あなたは疲れています」を英訳すると、”You’re tired.” となる。これは翻訳も正しいし、文法も正しい。発音も簡単だろう。
あなたが米国でオフィスワーカーをするとき、同僚に対して唐突に “You’re tired” と言ったらどんな顔をされるかわかったモノではない。むしろ失礼にあたるだろう。翻訳も文法も発音も正しいかもしれないが、場合によってはトラブルになりかねないほど不自然な英語なのである。
私は文法や発音は言語の本質ではないので等閑にしても良いと言っているのではない。文法も発音も、意味が相手に伝わる程度までには上達している必要があるだろう。しかし、言語というものを考えるとき、それらは付随的なものに過ぎない。なぜなら、言語というのは、発話以前、つまり人間の内側になければならないものだからである。存在しない言語を発話することはできない。人間の外に言語の本質はないのである。
文法などというものが果たして本当に実在するだろうか?ネイティブスピーカーほど文法について知らないのは単なる偶然だろうか?いや、偶然ではない。文法というのは教科書の中にしかないのだ。ネイティブスピーカーがなぜ文法についての知識なしに文法的に正しく喋れるのか、あるいは、文法的な間違いに違和感を覚えることができるのか、その原因はやはり人間の内側にあるのだ。
発音はどうか?ネイティブスピーカーは皆、音声学(発音学)の知識を持っているのか?解剖学的な方法で発音について熟知しているのだろうか?いや、やはり人間の内側にその根源がある。
私の考える言語の本質は以下の通りである。つまり、日常に即して使われる言語の本質は、日常と言語の間に介在する「衝動」だ。
同僚に挨拶するとき、古い友人に再会したとき、激情したとき、日本語モノリンガルの抱く衝動と英語モノリンガルの抱く衝動は全く異なる。「お疲れ様」の翻訳が不可能だったのはこのわけである。「お疲れ様」と言いたい衝動を抱くことができるのは日本人だけなのだ。人間は知らないものを欲しがることなどできない。
実は文法や発音というのは、全く日常に即していない。非日常的なことを記述する際にも文法を用いることができるのは想像に難くない。「私の頭の上に巨大なゾウが横たわっています」というとき、この日本語の文法に誤りはない。しかし、これも先ほどの”You’re tired”と同じで、このようなことをいきなり言い出したら、とうとうイカれてしまったのかと心配されるだろう。もちろん、正しく発音するかどうかなどもはや問題ではない。
言語を意思疎通を目的とした手段と考えれば、あなたの属する文化圏における日常というものを前提とし、その日常に即した衝動を抱き、その衝動に従って発話をするということが求められるはずだ。文法や発音はそれ自体意味を持たない。なぜならそれ自身では意思疎通の手段とはならないからである(無意味なことを文法・発音上正しく発話することなどたやすい!)。
ここまで説明すれば、何があなたを英語話者にさせるのかは明らかだろう。日常に即した衝動が言語の本質である。日常に即した衝動を抱くには、慣習的に受け継がれてきた文化を学ぶ他ない。それも、古典などを読むのではなく、現代の文化を学ぶ他ない(誰もシェークスピアの英語を使って日常会話などしない!)。学ぶと言っても、それは学校で教わる勉強とは似ても似つかないものだ。あなたが大学受験や資格の勉強でもしていない限り、単語帳などいますぐにゴミ箱に放ってしまいなさい。単語や表現の定義を記憶する勉強は偽の英語である。文化圏の日常に即した方法でそれらの単語を用いない限りは単語の定義などは何の役にも立たない。
衝動は意味を欲している。定義ではない。定義とは、数多くある意味が形成する意味群の中の平均値に過ぎない。意味群を見て定義を予想することはできても、定義から意味群の全体観を得ることはできない。
私は趣味で哲学や物理学を嗜んでいる。そこでふと気がついたことがある。カントにはカントの言葉の用い方がある。それは別の哲学でのそれとは全く別の使われ方をしている。一つの言葉に複数の定義がある。しかし、カントの文脈で使えば、それはカントの用語としての使われ方に確定する。そのとき、哲学や物理学の用語を理解することはまさに言語学習そのものである。一般の日常に即してはいないが、哲学者・物理学者にとっては哲学・物理学は日常であり、彼らの用語は彼らの日常に即した言語である。
私が「衝動」という言葉を言語論の文脈で独自に用いたのは、学者独自の用語を説明する際の好例である。そして、私の言う「衝動」に対する考察は、私にとって日常的な出来事なのである。
哲学書とは、ーーそれが言語によって記述されている限りーー 膨大な説明文を伴った辞書である。これはいかなる専門書でも同じである。学問するというのは、言語を学ぶのと全く同じ格好をしている。
そしてそのような学問を、趣味程度とはいえ嗜んでいる私の日常は、既に一般の日常と大きく異なっているかもしれない。だとすれば、私の衝動も一般の日常から逸脱したものであるに違いない。それはつまり、私は「私用言語」の話者であるということである。このとき、用語が何語で記述されるかどうかは問題ではないだろう。日本語で「従って」と言うか、英語で”therefore” と言うか、ラテン語で”ergo”と言うかは問題ではない。「生得的」というか、「アプリオリ」というか、“a priori“というかは問題ではない。それらは特定の文脈で用いられれば全く同じ意味を持つのだから。つまり私は日本語と英語、断片的な単語を含めれば、ドイツ語、フランス語、ラテン語を用いるのであるが、それは一つの自分専用の言語「私用言語」に収斂される。
それが日本語であろうと英語であろうと、私の知らない、あるいは知っていても使用しない単語や表現は「私用言語」には含まれない。なぜなら、言語の本質は「衝動」だからである。
そして私が日本語の話者となるときは、私があえて日本の文化圏の日常に即した方法で語を用いるときのみである。私が英語の話者となるときは、私があえて英語圏の日常に即した方法で語を用いるときのみである。また、私が私の日常に即した方法で語を用いるとき、私は私の私用言語のモノリンガルとなるのだ。