能力について
「(完全な)天才は間違えない」、天才が犯しやすい間違い。
「とある行為の能力とは、その行為がなされるすべての場合にも普遍的に発揮される何かである」という前提に立っているすべての人々は、この前提ですでに誤りを犯している。しかし、私たちはこの前提を受け入れたいという欲求に駆られる。
私は、「私は足し算を行うことができる」というときに、たとえば、無限桁の数同士の足し算のことを考えているわけではない。可能なすべての足し算を想定するという行為はすでに、足し算を行うための要件を遥かに超えている。そのような能力は天才というよりも神に相応しい能力だろう。
これらの考察は、足し算という言葉の使い方に関する考察ではなく、一部の哲学者が「不定的仮定文」と呼ぶところのものに関する考察であろう。不定的仮定文とは、「すべての人間は必滅である」というような文のことである。「私の家族はみな必滅である」というような文と比較せよ。
もしかしたら私は、ウィトゲンシュタインの数列に関する考察とほぼ同じことを言っているのかもしれない。私は『探究』を何度も読んだが、正直言って、自分のウィトゲンシュタイン解釈に自信がない。
「とある行為の能力とは、その能力がない場合と比べて、その行為の結果が望ましくなるような何かである」という前提を立ててみよう。これは言うまでもなくプラグマティズムの傾向を持った言明だ。
それでも私たちはまだ、能力の有無によって行為の結果に差が生じない場合を想定することができるのではないだろうか。では、行為の結果に差が生じないということが全くありえないような能力だけを、能力と呼べばよいのだろうか。私たちはまだ混乱したままだと思う。
「とある行為の能力とは、その能力がない場合と比べて、特定の条件下において、行為の結果が望ましくなるような何かである」ということによって私たちは一歩進んだことになるだろうか。
私は私が考えている能力の像にぴったり当てはまるような文を思いつかない。では、「私は能力について語る能力がない」と言うべきなのか。これは反語というより冗談のようなものだ。
能力という言葉によって何を表したらよいのか、このことが問題なのだ。私たちはこの問題のはっきりとした解決を知らないまま、能力という言葉を使っている。あるいは使う能力を持っている。この事実は、能力についての重要な何かを、皮肉に語っている。
天才は間違える。しかし、このことによって天才が天才でなくなるわけではない。私たちは「天才は間違えない」に対する反証を多く知っているし、天才は間違えるということに納得してもいる。それでも、私たちは天才の定義を変えたいとは望まないし、定義を変えることによって、私たちの言語がより良くなるとは信じていない。
ある人が「私は足し算を行うことができる」と言うので、あなたは、彼に問題を出してテストしようとしたとしよう。そして、彼があなたが出題した足し算の問題について、「これは私が想定していた足し算ではない。私はこの問題を解くことができない。他の足し算を出せ。」と言ったら、あなたは困惑するか、彼に「足し算」と言う言葉の意味を教えようとするかのいずれかだろう。しかし、もし彼が「これは私が想定していた足し算ではない。」と言って退けた問題以外の足し算を完ぺきにこなしたとしたら、彼が最初に言った「私は足し算を行うことができる」という文は偽ではないと考えるべきなのではないか。たとえば、彼の言語は、私たちが持っている言語よりも細分化された「足し算」の定義を持っていて、彼の言語において、あなたが出題した問題の内一つだけ「足し算」に含まれないものが混ざっていたのだとしたらどうか。もしそうだとしたら、彼は嘘をついたわけでもないし、「足し算」という言葉の定義を知らなかったわけでもない。ましてや、足し算の能力がないわけではない。
似たことは、普通の小学生にも起こっているのではないか。とある算術の規則に関する問題演習に際して、基本問題は解けるが、応用問題が解けないとき、ある人の頭の中に算術の規則が現れたり消えたりしているわけではない。その人は思い出したり忘れたりしているのではない。
天才には能力がある。だが、天才は間違える。ある人が間違える時、能力がふと消えてしまうわけではない。能力がある人も間違える。だから、能力がある人が間違えても、その人が天才でなくなるわけではない。
「天才は間違えない。だから、天才が言うことはいつも正しい。」このような前提に立って読書したりすることは、とても危険なことだ。
私は批判的な読書の仕方を推奨するというような、薄っぺらい教訓を述べたいのではない。読書に際して、著者の思考を追体験するような読み方が有用であるような場合はあるし、場合によっては批判的な読書の仕方が推奨されないような場合があることを私は強調しておきたい。
並外れた論理的思考力を持っている天才は間違いを犯さない、というのは誤りである。そのような想定は間違っている。この命題から推論をすることはとても危険だ。私たちは自分たちの怠慢の言い訳を、論理的思考の天才が持っていると想定されている論理的不可謬性に求めてはいけない。
「論理は日常世界でもいつも正しい」ということすらを訝しく思うような私の哲学的態度は、この文章で述べてきた考察と関係しているのかもしれない。論理が世界と関わりを持つ仕方は、私たちの鈍い頭を通してでしかありえないのかもしれないからだ。
これ以上は自信がないので書かない。考えがまとまりしだいメモするかもしれないし、そのメモを今この文章でしているのような簡易的な形式には留まるが、公表するかもしれない。