エイムに関するメモ

0. はじめに


この章はふつう、序章などと呼ばれるたぐいのものであるから、興味がなければ1章から読み進めてもよい。

 0a. この文章の目的


この文章は極めて誠実なエイムへの眼差しとともに書かれている。しかし、誠実に書かれた文章こそ不誠実に読まれなければならないというのが、世の理である。この文章は談笑である。この文章を読むときは、あなたは哄笑しなければならない。この文章は冗談だからだ。


 0b. この文章の役割


目的と役割は時に類似し、時に異なる。スピーカーのあらゆる機構の目的は音の波を発生させることだが、人間が使う時は、人間の耳に音楽などの情報を届ける役割を担うことになる。私がこのように言う時、あなたは目的と役割という言葉に固執する必要はない。言葉が転倒しても、私が意味したいことは変わらないからだ(スピーカーのあらゆる機構の役割は音の波を発生させることだが、人間が使うときは、人間の耳に音楽などの情報を届ける目的を持つことになる)。あるいは、同じ語を用いることもできる(スピーカーのあらゆる機構には2つの目的がある、または、2つの役割があると言えるように)。しかし、誤解を招きやすい表現だ。


この文章の役割は何か。この文章の役割は読者を啓蒙することにはない。この文章に書かれている事柄は、読者のエイムを向上させる力を持っていない。著者が与えていないからだ。この文章は、エイムに対するあらゆる考察の道標となることを目指して書かれている。この文章が乗り物の役割を担って、あなたを別の場所へ連れて行くのではない。この文章は道標であって、歩くのはあなたである。道標は無数の目的地への道を示すことができる。特定の目的地があると考えるのは勘違いだ。


あなたが抱えている問題をこの文章が予期せず、解決することがあるかもしれない。それは私には関心がないことだし、その解決が本当に正しいのかどうかも私にはわからない。私はただ、私が何を考えたかを思い出すためにこれを書くのだから。


 0c. この文章の意味


あなたがこの文章を読んで、「何故こんなにも回り道をして考える必要があるのだろう」と言いたくなるとき、あなたは正しい。この文章を書くという行為自体がある程度の間違いなのだ。


回り道をすることが誠実なのではない。回り道をする必要があると真剣に思うとき、人は誠実になるのだ。必要のない回り道をする者は不誠実だ。


 0d. この文章を読む理由について


誰が私の書く文章などに興味を持つのか?同じテーマについて考えたことがある者ならば、私がこの文章でやろうとしていることがわかるだろう。だが、誰が?


 0e. この文章が理解できないとき


この文章は偉大なる哲学者、ヴィトゲンシュタインの著作に多大なる影響を受けている。彼の名誉のためにも注意しておく必要があるが、私が彼の哲学を正しく理解できているかは問題ではない。私は彼の哲学から影響を受けたのではなく、彼の著作から影響を受けたのだ。さらに言えば、この文章は彼の著作を通した読書体験から影響を受けたと言ってもいい。文体や言葉遣い、考察のスタイルなどから、私が彼の著作から受けた影響が大きいことはうかがえるだろう。私は彼の真似をしたいのではない。真似をしたいのならば、ドイツ語でこの文章を書いているはずだからだ。


著者が本に関われるのはそれを出版するまでだ。残念ながら、その本がどのように読まれるかまでは関与できない。それはヴィトゲンシュタインにおいても、この文章においても同じである。


私はこの文章で剽窃を行おうとしているのではない。この文章は、私のエイムに対する弛まぬ考察を綴ったメモの断章である。私が彼を尊敬するようになったのは、私の頭を悩ませていた諸問題を、誠実な眼差しと鋭い洞察を持って分析する彼の著作を読んだからだ。私にとって彼は、偉大すぎる先人なのである。


もしこの文章で扱っているパズルのような問題について理解が難しければ、ヴィトゲンシュタインの著作を読むことがその助けとなるかもしれない(彼の文章の方が、私の文章よりも難しいかもしれないが)。


偉大な天才に敬意を表して。


1.エイムについて


 1a. エイムという概念が引き起こす誤解について


エイムしているとはどういうことなのか? 一般に「エイムする」と人が言う時、我々は、まるでそれに見本があるかのように語っている。


エイムに集中するというのはどういうことなのか? 画面上の標的を注意深く見ることか?あるいは、手指の動作に意識を向けることか?その両方か?両方に集中する時、それは集中とは呼べないだろう。見る行為と手指の動作という行為が不可分であるはずがないからだ。「外の人が歩くのを窓越しに見るとき、あるいは、映画を見るとき、つまり、何かを見るときはいつも手指を動かす」ということはありえない。不可分ではない二つの事柄を同時に行うとき、我々はそれを「集中している」とは呼ばない。


例えば、エイムしながら「見ることと手指の動作と次取るポジションについて考えるのに集中しよう!」などと言う者がいたらどうか?もし、IGLすることがエイムを構成する不可分な要素の一つだと言ったらどうか?


見るだけでエイムすることは不可能だし、目隠しされたままマウスを握らされて「エイムしろ」と言われてもできかねる。もし誰かがこう言い出したら?「俺はIGLしながらじゃないとエイムできない」。我々はこれを認めない傾向がある。 では、エイムする時に人間が何に「集中するべき」なのかを、誰が決めるのか?つまり、エイムとは何か?エイムしている本人にとってエイムとは何か?


セルフエフィカシー。弾が当たることを想像しながらエイムする。「見ることと手指の動作と、弾が当たることを想像するのに集中しよう!」セルフエフィカシーを体験したことがある人間には、今度の言葉は自然に響くはずだ。だが、IGLの場合とセルフエフィカシーの場合との間にどのような差があるというのか?


問題は、エイムについて我々にどれくらい自由が認められているのかだ。エイムの副動作にどれだけ複雑な思考を盛り込めるのか、あるいは、どれだけエイムと無関係な思考を盛り込めるのかだ。たとえば、エイムしながら哲学することはできるのか?それが「とあるエイム」をする時に必須の動作になりうるのか?


我々の頭の中の状態が、エイムにどのような影響を及ぼすのか。セルフエフィカシーがあれほどまでに神秘的に見えるのは何故か。それは、我々が「名前」で呼んでいる事物、「エイム」という名前で呼んでいる事物、我々が親しんでいると思いこんでいるあの事物たちの一切を、我々は本当の意味で知っているのではないからだ。我々は我々の頭蓋を割って中身を見ることなどできない。


 1b. 「操作する」という言葉が持つ危険性


エイムするとは、一体、どういうことなのか。


他人のプレイ動画をiPadで流しながら、その画面上に指を滑らせる男。「私のエイムです。ほら、私の指についてきている!シンクロしている感覚があるんです!」


試したことがない者は、すぐに試すべきだ。Aim Champのリプレイ画面の上に、まるで自分がたった今エイムしているかのような調子で指を滑らせる。その後、もう一度実際にプレイしてみよう。そのとき抱く奇妙な感覚。


我々がエイムするときに、度々抱く奇妙な感覚。「どの距離を、どのような速度で、どんなふうに動かしたらいいのかが、分かるんだ!」。


我々がラジコンカーを走らせる時、我々はラジコンカーを操作しているのか?それとも、プロポ(コントローラー)を操作しているのか?それとも、指先を操作しているのか?それとも、神経を操作しているのか?それとも、脳を操作しているのか?これらの間に確かに存在するように思われるあの「つながり」は、何を意味しているのか?我々は、何を操作しているのか?


操作するという言葉が様々な動作を象徴してしまうせいで、我々はめまいのするような考えに取り憑かれるようになる。操作の対象が何かに合わせて、異なる言葉が用意されていれば、我々はこのような混乱を引き起こすことはなかったはずだ(たとえば、コントローラーを操作することはサウサと呼び、指先を操作することはシウサと呼ぶ、スウサ、セウサ、ソウサなど)。動作の種類と言葉の対応関係を間違えて使う者がいれば、辞書を持ってきて示すことができる。


エイムするとは一体どういうことなのか。もしかしたら、我々が実際に何かを操作しているかどうかは無関係なのかもしれない。


 1c. エイムの多様性諸問題


エイムとは、一体、なにをどうすることなのか。


エイムするとは標的に照準を合わせることだ。では、次のような場合はどうだろう。「大きすぎて画面全体がそれで覆われてしまうような標的に、照準を合わせた。おれはエイムしたんだ!」(つまりエイムしていないのではないか?)


エイムするとは標的に照準を合わせることだ。では、次のような場合はどうだろう。「標的は見えなかったんだけど、音がしたから視点を大きく右に振ったら、標的に照準が合ったんだ!おれはフリックエイムをしたんだ!」


エイムするとは標的に照準を合わせることだ。では、次のような場合はどうだろう。「標的の位置を空間的に捕捉していたから、視認する必要すらなく照準を合わせたよ。私にはそれができるんだ。どの距離を、どのような速度で、どんなふうに動かしたらいいのかが、見ずとも分かるんだ」。


エイムするとは標的に照準を合わせることだ。では、次のような場合はどうだろう。「私は夢の中でエイムしていたんだ。本当は眠っていたのだけれど、まるで本当にエイムしているかのようだったよ」。


これらの発言者は、それぞれエイムに対して異なる像を見ているのだろうか。―「いや、そうではない。彼らは種類の異なるエイムをしただけだ」。―たしかに。だが、同じ「エイム」という名称を使うに足る共通性があるのか?―「皆、自分がエイムしたと思っているじゃないか。その点で共通しているよ」。―では、なぜ「エイムしたと思うこと」ではなく、エイムという名前で呼ばれているのか。まさか、略称ではあるまいに。


ある者が、それとは知らずに、エイムしていたということはありうる。


エイムが何を意味するのか知らない者が、エイムできるならば、「自分がエイムしたと思うこと」が多様なエイムの共通点であるはずがない。なぜなら、エイムをする本人がエイムについて何も知らないのだから。


「エイムという言葉が何を意味するのか、わかりません」。「エイムという言葉の意味を調べてみればいいじゃないか」。「調べたけど、言葉の説明が理解できないのです」。「じゃあ、やってみればわかるさ!これをこうしてね……こうすることだよ」。


「エイムってこういうこと?(エイムして見せる)」。「そうだよ」。


「エイムとは標的に照準を合わせることだ。だから、エイムしようとして失敗した時、それはもはやエイムではないんだ」。


「エイムとは標的に照準を合わせる『過程』のことだ。だから、トラッキングで標的に置いていかれっぱなしでも、エイムなんだ」。


我々のエイムの定義は、かなりまずいことになっているとわかる。


エイムをするときに立ち現れる諸現象の蓋然性を認めることは、エイムを定義する試みを放棄することを意味するのか?―「そうだ。エイムに必要な要素が定められていなければ、定義とは呼べない」。


我々は自信を持ってこう断言することはできる。「我々がエイムと呼ぶものがエイムなのだ」。―だが、なにをエイムと呼ぶのか?


「特殊的エイムという概念を知っているかい?エイムには色んな種類があっていいんだって」。「そう言うけれども、照準をわざと外すエイムなどというものがあっても良いことになるのかい?」「そうだよ。偏差撃ちを思い出してみようよ。わざと外すじゃあないか。あれもエイムさ」。


特殊的エイムの概念は、エイムを定義しようとする試みをもっと簡単なものにしてくれるだろう。だが、エイムに多様性を認めるということは、「おれはIGLしながらじゃないとエイムできない」という言葉をも、肯定することになりはしないか?「おれはトラッキングが得意だけど、フリックはできないんだ」などと言えることと同じように(おれはIGLしながらエイムするのは得意だけど、IGLしないでエイムするのはできないんだ)。


やはり問題は、エイムについて我々にどれくらい自由が認められているのかだ。


普遍的エイムというものが、何故ありえないのかを、もう説明する必要はあるまい。普遍という言葉にもエイムという言葉にも、その定義に問題がありすぎる。たしかに、特殊的エイムには完全な自由が認められてしまっている。それは論ずることのできない自由だ。定義に関わる自由だからだ。


実存は本質に先立つ。ならば、エイムはエイムの定義に先立つ。


 1d. エイムの完全な自由について


  1da. エイムの像と精神的過程について


一般に我々は、エイムの過程について、「感度の感覚を覚えて、画面の情報をもとに手を動かす量を決めて、それを実行することだ」と、あるいはさらに正確に、「身体操作と感度の倍数関係を身体で覚えて、視覚的に捕捉した標的の情報から感覚的に身体操作の量を確定し、それを正確に行うのだ」と説明することがしばしばである。


では、ある者が「エイム加速を使用しても問題なくエイムすることができる。全く異なる感度の間を頻繁に行き来しても、問題なくエイムすることができる。画面外の標的に対してもエイムをすることができる」と言うときに、一般に用いられるエイムの像と彼が持っているエイムの像は異なるのだとすることは正しいのか?


ある者がトラッキングエイムしているとき、その者の脳内でどのようなエイムの像が想像されているか、我々ははっきりと言い当てることができるのだろうか?たとえば、その者はトラッキングエイムの対象である標的を、動的に解釈するのではなく、1フレームごとに静的に描写される標的に対して極めて小刻みなフリッキングするというエイムの像を持っていたとしたら?


あるいは、「あなたたちはあなたたちがトラッキングするとき、標的を動的に解釈し、動的にエイムしていると思いこんでいるけれども、本当は、実際のところは、静的に描写される標的に対して小刻みにフリッキングを繰り返しているのだよ。いいかい、君たちは勘違いをしているんだよ」と、ある者が言い出したら、我々はどのように反駁することができるだろうか。


つまり、ある者がエイムしているときに、それを外から眺めている人間や、実際にエイムしている人間を含めた「誰しも」が、甚だしい勘違いをしている可能性があるということだ。


実際のところ、トラッキングエイムをしているプレイ映像をスローモーションで再生すれば、客観的事実が明らかになる。そして、不本意ながらも、それは我々のエイムの像と矛盾している。つまり、トラッキングシナリオで世界記録を保持する者すら、トラッキングエイムの像について、とんでもない見当違いをしているということだ。


本当にそうだろうか。実際にトラッキングエイムをするときに、だれもそれをスローモーションでプレイしたりしないのだから。


等間隔で出現しては消え、出現しては消えを繰り返しながら、一定の方向に一定の速度で移動するターゲットに対して、フリックでエイムを合わせるようする。そのプレイ画面を早送りにする。そして、それはトラッキングエイムのように見える(この節の冒頭の記述は、スローモーションにしたトラッキングエイムを、等倍速で再現しようとしたものだ)。「つまり、私はフリッキングをしていると思いながらトラッキングをしていたのか?」―いや、そうではないはずだ。


「実際」にそれがどうであったかということ、エイムの過程がどのようなものであったかに拘泥すると、このような解決不可能な問題に直面することになる。


エイムをこのような問題から解放する必要がある。なぜなら、このような問題は我々に何も有益な問いや答えを与えてはくれないのだから。


  1db. 上達を巡るパラドックス


「エイムとは標的に照準を合わせることである。だから、エイムしようとして失敗したとき、それはもはやエイムではないんだ」という言葉から、我々はどのようなエイムの像を与えられるだろうか。


初心者がエイムに苦心しているとき、つまり、エイムしようとして失敗しているとき、初心者はエイムをしていないのか。初心者が失敗を繰り返すうちに上達したとき、我々の眼前に、パラドックスが出現する。初心者はエイムをせずにエイムを上達させたということになる。妙なことではないか?―「いや、初心者はエイムではなく練習をしたんだ」。―たしかに。では何の練習をしたのか?ピアノの練習でもしたのか?それともジムノペディという曲の練習か?エイムの練習をしたはずではないのか?


つまり、ここで私が言おうとしていることは、エイムをせずにエイムが上達するということはありえないということだ。エイムではなく練習をしたのだというのならば、練習であるならばそれがどのようなものであってもよいということになるのか?いや、それはエイムの練習でなければならないはずだ、ということだ。


1bで扱った操作という言葉が引き起こす問題と同じことが、練習という言葉でも起きている。何の練習をしたのかということまでは、練習という言葉は語ってくれない。


エイムではないことをして、エイムが上達するとは何を意味するのか。いや、何も意味しない。


「エイムとは標的に照準を合わせる『過程』のことだ。だから、トラッキングで標的に置いていかれっぱなしでも、エイムなんだ」。―たしかに。だが、過程とは何なのか?エイムの精神的過程が問題になるのか?それとも物理的過程か?我々は、過程を問題にするとまずいことになるとすでに知っている。実際にエイムが、トラッキングエイムがどうなっているのかを考えると、我々はあの迷宮へと迷い込む。


もし、自分にとってはドビュッシーのピアノを聴くことがエイムの精神的過程の一部だと主張する者がいたらどうか。彼にとって、ドビュッシーのピアノを聴くことは、エイムすることになるのか?


固定されたマウスの下を滑走面が回り続けるベルト式の機械を想定しよう。その入力は一定の速度で一定の方向に照準を動かしている。標的は速度を変えて照準と同じ方向に動いている。標的は照準に追いついたり追い越したりしている(照準が標的に追いついたり追い越したりしていると言うことも可能だ。それをどのように記述するのかは、観測者によって異なる)。この場合、物理的過程を問題にして、エイムしていると言って良いのか。標的に全く無関係に動き続けることもエイムすることになるのか?


「トラッキングで標的に置いていかれっぱなしでも、エイムなんだ」。では、トラッキングエイムが上達するとは一体どういうことなのか。置いていかれっぱなしのまま10年間が経過したとしよう。その者は十年間エイムし続けて、少しも上達しなかったということになるのか?あるいはごく僅かに上達しているはずだとでも言うのか?―いや、違う。「下手にエイムする」のが上達したんだ。下手にエイムする「演技」が上達したと言ってもいい。


  1dc. 特殊的エイムという言葉が我々に与えてくれるもの


エイムは複合物である。エイムは精神的過程と物理的過程から成り立っている。精神的過程は様々な要素を含んでおり、物理的過程も同様である。


「もし、自分にとってはドビュッシーのピアノを聴くことがエイムの精神的過程の一部だと主張する者がいたらどうか。彼にとって、ドビュッシーのピアノを聴くことは、エイムすることになるのか?」―彼にとって、ドビュッシーのピアノを聴くことは、エイムすることの一部であるということになる。それは特殊な精神的過程を含んだエイムだ。―「では、IGLしながらエイムすることも、特殊な精神的過程を含むエイムだと言えるのか?」―その通りだ。


過程がその結果に関係があるかどうかは問題にならない。なぜなら、エイムしようとして失敗するときの過程は、実際にはエイムに無関係なのだから。エイムしようとして失敗するとき、人が何を思っていたか、何をしたかは、エイムに関係していない。なぜなら失敗したのだから。


過程がその結果に関係があるかどうかは問題にならない。なぜなら、ある者が、利き手ではない方の手で、文字を書こうとして失敗するとき、その者は文字を書いたことになるからだ。実際にその字が読めるかどうかは問題ではない。なぜなら、子供が利き手で書いた文字を、他者が読めないとき、「その子は文字を書かなかった」とは言わないのだから。


ほとんど読むことができない悪筆を書いたときの物理的過程を考える。筋肉がどのような強さで、どのようなタイミングで収縮したのか、それが骨格をどのように動かし、ペン先を操作したのかを考えよう。確かに、その物理的過程は、「読める字」を書くという過程には無関係だ。しかし、字を書くという過程にはたしかに関係している。利き手であれば、普通の文字を書くことができるものが、利き手でない手でペンを握った瞬間に、文字を書くという像を喪失するわけではないのだから。


エイムが上達するというのはどういうことか。下手なエイムをするときに共通する心的・物理的過程が存在すると考えることが、我々に誤謬をもたらす。普遍的に下手なエイムなど存在しないのだ。


下手なエイムというエイムの種類は存在しない。完璧なエイムがたった一つだけ存在し、その他のエイムは無数に、互いに無関係に、ただ家族的類似性を持って存在しているのだ。たった一つと言う時、私は完璧なエイムが特別な存在であると言うことはしない。一つの現象として存在しうるというだけである。


エイムが上達するときに、実際に起こっているのは、物理的過程におけるごく僅かな変化だ。


物理的過程がごく僅かに変化して、完璧なエイムへと少し近づく。これを我々は上達と呼んでいる。説明するまでもなく、すでにそうしているのだ。ここで改めて記述しただけである。


 1e. エイムの定義について


「あるもの」と「『あるもの』でないもの」に二分しようとするとき、ほとんどの場合、線を引くのは間違っている。


我々が境界線を画定してそれを二分したいと思うとき、ほとんどの場合、その境界線は間違っている。


ほとんどの線には太さがある。「太さが0の線がある」というときは、ほとんどの場合、我々はそこには線がないという言葉を使う。


1と2の間に境界線を引こうとするとき、その線の太さが0.3であれば、0.9と1と1.1は、線に属する領域となる。1の領域と線の領域、2の領域の三分割をしたことになる。


太さが0の線について考えてみよう。例えば色のそれを。赤の絵の具と青の絵の具を真横に並べる(と想像しよう。ここでは、物理的現象は問題にはならない。概念上の色を並べるとき絵の具が混ざって紫色になる心配は不要だ)。赤と青の間には、太さが0の線が確かにある。だが、こういう場合、我々はそこに境界線を引いて二分したいという衝動に駆られることはない。なぜなら、すでに、赤と青は異なる存在だからだ。


赤と青の間に境界線を引こうとすると、我々は線を二重に引いているという気分になる。


色を並べるという行為を我々は様々な言い方で呼称をすることができる。「赤と青に分けた」ということができるし、「赤とそうでない色に分けた」ともいえる。また、「青とそうでない色に分けた」ともいうこともできる(実際、青は赤ではないし、赤は青ではないからだ)。


我々が概念上のエイムを区別しようとするときに、境界線を引こうと試みることは、二つの次元にまたがって間違っているといえる。一つは、境界線の引き方で、もう一つは、境界線を引こうとすること自体で。


エイムを抽象的に捉えようとすると、その像が何重にも重なって見え、我々は困惑する。しかし、エイムを物理現象として解釈すれば、その像は焦点が合って、はっきりと見える。


エイムとエイムでないものを区別しようとするときは、境界線の太さを問題にしなければならない。そして、境界線上にあるものを問題にすると、我々は解決不可能な問題にぶつかることになる。


1と2の間に物理的な境界線を引こうとするとき(たとえば物差しのめもりなど)、境界線の太さを無視するのは、境界線の太さが、1と2の間にある差と比べて極めて小さく思えるからだ。しかし、線にはたしかに太さがある。


色のグラデーションを考えよう。色のグラデーションに境界線を引こうとする試みがいかに馬鹿げているかわかるか?境界線の太さだけでなく、境界線の色も問題になるからだ。


色のグラデーションの上に無色透明の境界線を引く場合に、我々は「境界線を引かなかった」と言う。


色のグラデーションに「赤っぽい部分」「オレンジっぽい部分」「黄色っぽい部分」「緑色っぽい部分」などと大まかな区別を与えることは可能だ。だが、赤っぽい部分の領域に属する色の中で、赤以外の色の全ては赤ではないのだ。


エイムの上手い下手に境界線を引こうとする試み、フリックとトラッキングに境界線を引こうとする試み、あらゆる境界線の画定の試みは馬鹿げている。


エイムとエイムでないものの間に境界線を引きたくなるような場合、つまり、境界線がまだ引かれていないように感じる場合、その衝動は馬鹿げている。


あらゆる境界線は誤りなのか?―いや、そうではない。たとえば、隣り合う色の間に確かにある境界線は、少しも馬鹿げていない。


我々が誠実に考えてもなお、確かに区別があると言いたくなる場合、そこにはすでに境界線がある。


 1f. エイム自体とその過程について


エイムに関する理論を学ぶこと、設定を変えることなどは、なるほど確かに ”それだけで” エイムを良くすることがある。練習を必要とせずに。それでも私にはそれが、「本を読まずともあらすじを読めば内容がわかるのだ」と主張することと似ているように思われる。


論理実証的魅力と、ある程度の愚昧。


エイムに関する理論を知った状態でエイムするというのは、エイムの特殊な精神的過程の一つだと言える。また、特定の設定を使ってエイムするというのは、エイムの特殊な物理的過程の一つだと言える。つまり、これらの事柄は、エイム自体に関わっているのではなく過程に関わっているといっても良い。


だが、ここで言う「エイム自体」というのは何なのか?つまり、完璧なエイムというイデアは、形而上ではなく、むしろ、形而下に存在するものなのではないかという疑いが、我々を困惑させる。


エイムの過程はエイム自体とは異なるのか?


あなたは水を飲むためにカップに手を差し伸べる。手がカップに届く前の瞬間を私が写真に収めたとしよう。そして、第三者にその写真を見せて、こう尋ねる。「この人は何をしていると思いますか?」―「この人はカップを手に取ろうとしている」。―「この人はカップを手に取る途中だ」。―「この人はカップを手に取るための精神的・物理的過程における特定の段階に差し掛かっている人だね」。


その写真をどのように説明しようとも、その説明はカップを手に取る行為自体とは無関係だと言うことができる。過程についての説明だからだ。


例えば、私が写真を撮影した直後に、あなたが手を引っ込めたらどうか?あなたがそうした場合、写真についての上記の説明の一切は無に帰し、あなたの行為とは無関係になる。しかし、説明が無意味になるわけではない。


全ての説明とは無関係に存在する行為。つまり、現象の領域における行為は、あらゆる可能性を秘めて、自由である。


エイムの過程がエイム自体とは無関係であることは、すでに分かっている。


理解力は納得感の婢である。しかし、我々の理解の範疇を超える事柄が起こりうるというのは、我々の納得感の外側に位置する事柄が確かに存在するということを意味している。


説明というのは、納得感を我々に抱かせるものでなければならない。だから納得感の外側に位置する事柄を説明することはできない。写真を見て「この人は、カップを取ろうとするが、途中で止める途中だ」などと説明することはできない。納得感が必要だからだ。


納得感は様々な事柄を要求する。たびたび必然性を。


私がここで言おうとすることは、我々の納得感の外側に位置する事物たちについて、予見することはできないが、軽視することもまたできないはずだということだ。エイムの過程がエイムに無関係であると私が言うことに違和感を覚えるのは、あなたの納得感があなたの理解にくびきを掛けているからだ。


 1g. 良いエイムの精神的過程について


良いエイムの精神的過程とは一体どのようなものなのか。例えば、セルフエフィカシーは、とある特殊的エイムの精神的過程の一部になりうる。だが、その特殊的エイムが「良い」のかどうかは、人間の印象によって決まる。


エイムが良いかどうかは、過程に関わる問題ではない。エイムの精神的過程がエイムに必ずしも影響を及ぼすのではないと我々はすでに知っているはずだ。ただあるのは物理的過程、つまり現象だけだ。


しかし、とある物理的過程を含む特殊的エイムが良いとされるとき、その「良さ」の起源は過程にあるわけではない。全ての過程が終了した後のエイムに対して、我々が印象を抱く時に初めて発生するからだ。


つまり、本章の主題「良いエイムの精神的過程について」はまずい考えへと我々を誘導しているということだ。


エイムの良し悪しを考える時、我々は過程ではなく結果を見なければならない。


 1h. エイムアシストについて


エイムの物理的過程の中にエイムアシストが含まれている時、我々はそれをエイムと呼ぶことができるのか?


この問題を考える時、私は手段と目的という概念を用いたくなる。


自己目的化できるかどうかは、無論、自己の中に目的を有しているかに因る。「エイムアシストのためのエイムアシスト」は意味をなさない。それはなぜか。当然自己の中に目的を有していないからだ。


しかし、過程は手段や目的とは無関係に存在することができるのではなかったか?エイムアシストが物理的過程に含まれている時、あるいは、ドビュッシーのピアノを聴くことが精神的過程に含まれている時、その過程はエイムとは無関係に存在することができるはずではないのか?


「我々」や「私」ではなく、「辞書」は、エイムアシストが物理的過程に含まれている場合も、それをエイムと呼ばなければならない。


ある者はエイムアシストが物理的過程に含まれている場合もそれをエイムと呼ぶ。ある者はそれをエイムとは区別する。


これは色彩の感覚と同じことだ。グラデーションの中に何色の色を見出すか数える色彩テストの結果が人によって異なることと同じだ。ある人はエイムアシストとエイムの色の違いに気がつく。匂いの違いに気がつく。ある人は気づかない。


2. 印象について


 2a. エイムの美学について


エイムの美学について、私が過去に書いた文章を読む時、それが私に語るのは、夥しい誤謬の数々だ。しかし、その中には注目に値する事柄も含まれていた。


  2aa. 完璧なエイムについて


完璧なエイムというものは存在する。それはたしかに存在する。それはその完璧さ故に美を持つ。しかし、完璧なエイムという物理現象の領域における一つの事物は、経験の蓋然性の中で相対化される(これはまずい説明だが、仕方がない)。完璧なエイムは、完璧でないエイムと隣り合って並べられても、なんら特権を持つわけではない。それは特定の物理的過程によって発生した現象にすぎない。そして、このことは完璧でないエイムも同じであるからだ。


我々が美しいという印象を与えるその作業、事物に対する美しさの付与は特権的行為である。しかし、美が所与される事物それ自体は、何ら特権を持っているわけではない。


色のグラデーションの中の特定の色を「赤」と名付ける時、その色と隣り合う赤でない色たちと比べて、赤が特権を持つわけではない。だが、我々が赤と呼ぶ色の中に、人間には認識不可能な境界線が隠れているとしたらどうか?全く異なる色を、ひとまとまりにして「赤」と呼んでいるとしたらどうか?命名というのは特権的行為だ。そして、命名というのは人間の認識、つまり印象に依って成り立っている行為だ。


  2ab. エイム以前について


エイム以前にエイムが存在するのかどうかという問いは、たしかに、先駆的である。この文章に書かれている事柄がその問いに答えを提示する。エイム以前にエイムなど存在しない。私はそれをしばらく前から知っていたようである。ここで述べてきた考察の数々を全て無視して、それを予見したのか?


エイムの過程はエイム以前に存在する。しかし、それはエイムとは無関係に存在する。つまり、エイム以前にエイムは存在しない。


我々が美を見出す対象は何か?それはエイムの結果であって、過程ではない。


だが、トラッキングエイムを考えると、我々は過程と結果の区別が困難だと言いたくなる。トラッキングエイムをしている最中は過程なのか?それとも結果なのか?


これは時間という概念が、我々を戯れに、しかし、悪意なく惑わそうとする時に使うトラップである。トラッキングエイム以前にはトラッキングエイムなどという物は存在しない。したがってトラッキングエイムはトラッキングエイム以後にはじめて経験的事実となる。エイムの過程はたしかに存在する。物理的過程だけに注目するのではなく、その精神的過程について考えればわかることだ。トラッキングエイムの最中に我々の頭の中で起きていることは過程だ。我々の指が動くこと、それによって画面が動くことは物理的過程だ。その過程の複合体が存在するという事実に対して我々が「エイム」という名前を付けた時にはじめて、エイムも事実になるのだ。


エイムはエイムの定義に先立つ。エイムの過程の複合体という事実は、エイムという事実に先立つということに注目する。


 2b. 印象における絶対と相対について


  2ba. この章の読み方について

色とエイムの間にあるメタフォリカルな関係に注目して読み進めることも可能だ。そうするならば、あなたはもっと明晰なエイムに対する考察の道標を得ることができるはずだ。


  2bb. 色における印象の絶対性と相対性について


絶対音感は我々に何を意味するのか?色覚におけるそれが存在しうるのかどうか、私には定かではない。音におけるそれが、本当に絶対なのかどうか、それも私にはわからない(エイムにおけるそれが存在しうるのかどうかが、あなたが関心を寄せる所であるならば、この章がその答えを示すように読むこともできよう)。


私がピアノの鍵盤を叩くと、その人はその音の名称を答える。あるいは、私がとある色が印刷されているカードを見せると、その人はその色の名称を答える。あるいは、私がとあるエイムを見せると、その人はそのエイムの名称を答える。


なるほど、色における絶対印象は、「名前」との相性が悪そうに思われる。ほぼ無限にある色のグラデーションの段階の全てに名称を与えるということはできないからだ(比喩的にエイムのグラデーションにも同じことが言える)。


しかし、色がわかることと名前を答えられることは全く別の事柄ではないか?つまり、名称を答えるという作業を飛ばして、色を認識するという精神的過程に重点を置くことが許されるのではないか?


ここでは経験の私秘性が問題になる。名称が答えられないとき、それが絶対的な感覚なのかどうかを判断する基準が失われるからだ。そこで、見た色と同じ色を色見本の中から見つけてそれを指差すという方法を取ってみることとしよう。もし色見本の中から同じ色を見つけてそれを指差すということができたら、そのものは絶対色彩感覚を持っていることになるはずだ。


もし、ある者が「あなたが見せたカードの色は、この色見本の中にありません」と言い出したらどうか?あなたは「そんなはずはない。このカードはこの色見本の中にある色を参照して作られているのだから」と言うかもしれない。だが、その者が「いや、たしかに似ている色ならある。この中から一つ絶対に選ばなければならないとしたら、本当は違う色だが、この色を選ぶ」と言って正解の色を指差すとき、この者は絶対色彩感覚の持ち主なのだろうか。そうではないのか。誰がその判決を下すのか?


もし、絶対色彩感覚を持つものよりもより多くの色を認識できる者がいると想定するならば、もはや絶対色彩感覚などという言葉の先頭についている「絶対」の文字など飾りにすぎない。


色見本の中に存在しない色を想像すること、思い浮かべることが可能か考えることが、我々にどのような知恵を与えてくれるだろうか?


カードの色を見て、色見本の中から同じ色を選んだつもりだったが、不正解だった時、我々は色見本の中に存在しない色を想像したのではないか?


色覚異常者は色見本に存在しない色を見ていると考えることができるのではないか?


ここでも、経験の私秘性が問題になる。


だが、もし我々の精神的過程において思い浮かべられる色(の印象)に、色以外の名称を用意してやるとしたらどうか?


つまり、この問題もまた、1bにおける操作という言葉が引き起こす難題と同じことなのだ。色という言葉が、物理的過程における色と精神的過程における色とを同じ言葉で象徴することがこのような問題を引き起こしている。


色でないものを参照して色を選ぶのだから、間違いは発生しうると言えるのではないか?だが、色でないものを参照して色を選ぶとき、その回答が正解であるということが何を意味するのか?絶対という言葉がここで果たす役割は何かを考えてみよう。


色と精神的過程における色(色でないもの)が正確に対応しているということ、色と精神的過程における色の関係を確実に認識するという精神的過程が新たに含まれなければ、やはり絶対色彩感覚があるとは言い難いだろう。


しかし、「確実に認識する」という言葉を用いることで我々は例の袋小路に迷い込むことになる。


「確実に認識した」と自分が認識するというのが確実でなければならない。「確実に認識した」と自分が確実に認識することが確実でなければならない。これ以上続ける必要はないだろう。


「商人が売り物のリンゴを、確実を期するという以外には何の理由もなしに、ひとつひとつ検査しようとする。(それなら)彼はなぜ検査そのものを検査しないのか」(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著, 黒田訳, 大修館書店, 『確実性の問題』, p.114, §459)


我々は自分の認識が確実かどうかを気にしたがらない傾向にある。しかし、だからといって、我々の認識が確実かどうかは依然として不明なのだ。不明であるということが確実である時点で、我々の認識は確実ではない(これは言葉遊びではない)。


精神的過程における色(色でないもの)を参照しながら、絵の具を混ぜて全く同じ色を作ろうと試みる(骨の折れる作業であろうが、思考実験であれば誰の骨も折れることはない)。苦労の末に完成させた色を他人に見せると、「ああ、これは赤だね」と言われる。


それが赤ではないという根拠は、その色を作成した者の精神的過程にのみ存在するのではないか?色見本とその色を真横に並べた時、ある者には境界線が見え、ある者以外には見えない。これは太さが0の境界線を見る時に実際に起こりうることだ。


赤で書いた文字の上に透明の赤いシートを被せる。一見すると文字が消えたようであるが、よく見ると薄く文字が読める。赤い文字が姿を消したのだという言説を支持することができるのは、赤い文字が消えたように見えたときの精神的過程のみである。


我々が一色だと思っている色の中にも境界線が存在するのかもしれない。それが存在しないという主張を支持することができるのは、それが見えないときの精神的過程のみである。


人間には識別できないほど赤色によく似た色と、赤色を隣り合わせにしたカードを作る。そして、様々な人に質問する。「このカードの色は何色ですか?」―「赤色です」。―「赤色じゃないの?」―「赤色でしょ」。


緑色は赤色ではない。赤によく似た色は赤色ではない。緑色が赤色ではないのと同じくらい、赤色によく似た色は赤色ではないはずだ。


「PはPである」という論理は、「赤色は赤色である」という論理と同じだ。だが、この論理は破綻し始める。


論理はより純粋な形でなければ、その正しさを保つことができない。


色のグラデーションを見た時、少数の色が並んでいるだけだというのか、色がだんだん変化するように並べられた多数の色だというのかは、見る人によって異なる。


ある人は、色という言葉の意味を理解しないかもしれない。あるいは、我々とは違って理解しているかもしれない。


 2c. 印象と理解について


鏡を見た時に写っている自分や空間。合わせ鏡をした時にできる幻の空間。我々はこれらの像や空間は、鏡の外にあるそれとは種類が異なると知っている。我々はそう理解している。


もし、鏡の外の像や空間とは種類が異なるものだと思っているものが、実は同じだったとしたらどうか?本当に瓜二つの人が鏡の枠縁を挟んでこちらを見ているとしたら?そのようなことが起こる可能性は少なからずある。合わせ鏡をした時にできる幻の空間については、努力すればすぐに再現可能ではないか?対称になるような空間を縮小させながら作り続ければ、一見合わせ鏡のように見える本当の空間を作ることは可能だ。


もし、我々の世界が密着した合わせ鏡の中にあるとしたら?


では、我々はなぜそのような可能性を無視して、鏡の空間を幻だと理解し、決めつけることができるのか?少しも疑わずに、そう考えることができるのか?


子供が絵を描く。その絵は猫を表現しているのだと子供は主張するが、誰が見ても犬の絵のように見える。ここで、我々は様々な場合を想定する。子供の絵が下手で、本人は猫を書いているつもりだが、犬のように見えてしまっているという場合。あるいは、子供が猫という言葉が犬を意味する言葉だと誤って認識している場合。または、猫と犬が同一の生き物だと認識している場合、などなど。


子供が絵のモデルになった猫を見せてやると言い出して、大人たちを猫のところへ連れて行くと、その猫は犬によく似た猫だった。ただ大きさが少し小さいだけだ。


これは、ある者が人間の絵を書いたのか、人形の絵を書いたのかを区別するのが大変難しいということと似ている。あるいは、ジオラマを撮影した写真を現実だと誤認する場合やその逆の場合とも似ている。絵を描くとき、大きさの大小を表現することは難しい。光の当たり方などの緻密な表現が必要だからだ。


ある者があるイラストのキャラクターをモデルに絵を書いたとしよう。その者はキャラクターをモデルに絵を書いたのか?それともイラストの複製をしたのか?この問いの意味がわかるか?


絵を描く本人にでさえ、これらの区別をすることは難しいはずだ。犬によく似た猫の絵を書いているのか、空想上の犬の絵を書いているのか。あるいは、人間の絵を書いているのか、空想上のリアルな人形の絵を書いているのか、などなど。


眼前の物を対象に模写を書く時にでさえ、我々には確証がない。


とある理解というのは、一つの形式である。パラディグム的代替可能性を持っている。私が絵を書いているのか、手が絵を書いているのか、ペンが絵を書いているのか、などなど(主語が異なる際に、それぞれ別の動詞を用いる言語があっても不自然ではないし、異なる対象を模写する際に、それぞれ別の動詞を用いる言語を想定しても不自然ではない。それらの組み合わせによって何通りもの言い方がある言語を想定することも不自然ではない)。


しかし、そういった言語が実在しないのは、「検査を検査しない」という傾向が、我々人類には確かに存在するからだろう。


 2c. 印象の共有不可能性について


言語によって印象を共有することは可能だと言える。しかし、言語が何を前提にしているか、つまり、何の土台の上に成り立っているのかを考えることは、印象の共有可能性を揺るがすかもしれない。


我々は「知っている」という理解の形式、一種の通行手形を用いて、「検査の検査」という検問を免除するのだ。言語におけるそれも同様なのか?


我々が語に意味を与えるということも、語が我々に意味を教えるということもありうる。語が我々に意味を与える場合、他の力を借りて、人間を理解へと誘おうとする。だが、他の語の力を借りる場合、この語の援助の連鎖は、どこかで終わらなければならない。


「この言葉の意味がわかった」と、ある者が言う場合、その者はどのような精神的過程を経たのか?


我々が何かを教わる時、我々はそれを(少なくともそれの一部を)すでに知っていなければならない。経験していなければならないと言っても良い。


全く未知の物に対して我々が理解するというのは、どういうことなのか?


ある像について理解することと、ある像を「経験」することは、どのように違うのか?


言葉が我々を一つの理解へと導こうとするとき、我々には言葉を「照らし合わせる」対象が必要なのではないか?言葉が何を象徴しているのかがはっきりとわかる時、我々は「この言葉の意味がわかった」と言う。


しかし、言葉の説明ではなく、言葉が象徴する対象についての説明が必要ではないのか?もし、それが必要にならない場合、我々はそれをすでに知っているのではないか?あるいは、経験しているのではないか?


説明されるある物については、説明の受け手がそれについて経験したことがあるという前提条件下にのみ、説明可能である。


言語を介さない純粋な知覚が我々に指し示す事柄の全てが、言語の記述の対象であるとは限らない。たとえば、我々の感覚について。このように言う時、しかし、新しい語を創造する場合はその限りでないと言うこともできる。


全てを記述することができる人工言語を作ることは、我々に何をもたらすか?―絶え間ない言語の変化と放恣を。


たとえば、様々な頭痛について、それぞれ別の名詞を用いると考えてみよう。痛む場所や、痛み方について記述することができる名詞を。しかし、特定の頭痛を経験したことがない人にその頭痛を示す名詞の意味が理解できるのか?場所はともかく、痛み方などということが言語に完全に翻訳できるのか?


我々は痛みの場所を説明する時に、神経が存在しない場所を指差すことがある。たとえば、幻肢痛など。幻肢痛を理解するとは一体どういうことか?


「盲人にしか見えない景色がある」と我々が言いたくなるのは、盲人が何を見るのかという問いが回答不能だからだ。「見る」という言葉が盲人にとって何を意味するのかですら、我々には定かではない。もちろん、”see” と言ってみても、”sehen”と言ってみても何も変わらないのだ。人工言語では、盲人が何かを見る際には別の動詞を用いるかもしれない。だが、それが我々を理解に導くのか?


ある者が食べ物の味について説明するのを聞くだけで、自分が実際にその食べ物を食べた時にどのような味を感じるかがはっきりわかるということがありうるのか?あるいは、「おいしいです」というのを聞いたときにも。


あなたの恋人が「あなたを愛しています」とあなたに告げるとき、あなたの恋人がどのような感情を持っているのか、本当に理解できるのか?


もし、味覚や食感、愛について、完全に記述することができる人工言語を作るとしたら、それは骨の折れる仕事だろう。一体、何通りの愛の種類がこの世界に存在するのだろうかと考えると、めまいがする。そして、仮にその仕事が完遂されたとしても、その夥しい名詞の数々が我々に何を意味してくれるというのか?何も意味しないのではないか?


あなたが以前に食べたことのある食べ物の味についてある者が説明するのを聞くと、その食べ物の味がはっきりと思い出せるということはありうる。「あなたの説明の意味がわかる」と言うかもしれない。だが、この場合、あなたは理解したのではなく、思い出したのではないか?


ある者が「こういう感覚でエイムすると、良いエイムができるんだ」と言うのを聞いて、あなたがそれを理解できるかどうかは、あなたがその感覚を経験したことがあるかどうかに依存しているのではないか。


すでにそれについて知っている人に対して、それを説明するというのは虚しい作業のように思える。


 2d. 「理解できない」という印象について


「私にはこれが理解できない」とある者が言うとき、我々はその発言からどのようなことを得るのか?


上級者プレイヤーのプレイ動画を見て、「どうしてこんなに弾が当たるのか理解できない」と言うのは、正確な説明だろう。


一度その感覚が経験されれば、忽ち説明が理解できるようになるという事柄は数多く存在はずだ。だが、人を特定の感覚を持つよう誘導するというのは、困難だ。殊に言葉を用いる場合には。


理論よりも実践を重んじたくなるのはこのためではないか?エイムについての理論を理解するためには、やはり、エイムについての経験が求められるのではないだろうか?そしてエイムについての経験は実践から得られるのではないか?


  2da. 例え話について


哲学書を読むとき、我々は特定の経験をするように、手取り足取り指導されているような感覚を覚えることがある。言葉が我々を特定の経験へと導くというのは、どういうことなのか?


我々は説明が困難な事柄についての説明を試みるとき、しばしば、例え話を用いる。例え話は、誰もが経験したことがあるような事例でなければならない。説明者と被説明者の間に共通の経験があることが、説明の前提条件だからだ。説明者の経験が独自のものであるとき、その経験とよく似た経験で、なおかつ、被説明者が経験したことのあるものを用いて、論理的対応関係を示すということが、例え話の役割である。


例え話をする際に、我々は二つの次元にまたがって事柄を共有している。一つは言葉(の使われ方)の次元で、もう一つは論理の次元で。


例え話を聞いて、説明を理解するとき、我々は「説明がわかった」と言ってもいいし、「思い出した」と言ってもいい。


哲学書は、その全体が例え話であると言ってもいいし、哲学書は例え話という「文法」で書かれているのだと言ってもいい。


哲学書が理解できないとき、あなたは例え話の事例の方にも経験がないのだろう。あるいは、言葉の使われ方が共有されていないかだ。「完璧なエイムという物理現象の領域における一つの事物は、経験の蓋然性の中で相対化される」と言われても、言葉の使われ方が指定されなければ理解できない。


 2e. 道徳について


道徳と不道徳には区別があるとする人もいれば、色のそれと同じように、グラデーションが存在すると言う人もいる。グラデーションが存在すると言う人の中にも、その段階の数に違いがある場合がある。道徳相対主義者たちが議論するのを聞けば、そのことはよくわかる。


過程にエイムアシストを含まないエイムと、エイムアシストを含むエイムを区別する人がいる一方で、しない人がいる。エイムアシストを使用せずゲームをプレイすることと、エイムアシストを使用してゲームをプレイすることを区別する人がいる一方で、しない人がいる。


賛否両論の正体とは、つまりこういうことなのだ。


グラデーションにおいて、より多くの段階を認識できる方が道徳的に優れていると我々は言いたくなる。だが、そのように主張することが我々に何をもたらすと言うのか?何ももたらさない。


共有不可能なものを共有しようとする試みは、高貴な闘いである。だが、何ももたらさない。ひたすらに失うだけだ。


例え話を用いても、何をしても、区別する人としない人には共通した経験がないのだから、例え話が呼び起こすことができる感覚もないのだ。


我々に絶対色彩感覚がないことを考えればわかる。


「分断の時代は目前である」。―そう。その通り。


「我々の勝利は目前である。我々は勝利できるか」。―できない。


分断は分断であって、闘いではない。闘い得ないからだ。ただ、闘おうとすることができるだけだ。したがって勝利することもない。


 2f. 芸術について


あなたはりんごの絵を描く。異邦の子供に、りんごとは何かを教えるために絵を描く。その絵を見せると、子供は「わあ、きれい」と言う。


あなたはりんごの絵を描くのに失敗したのではないか?あなたは間違って、きれいなりんごを描いたのではないか?りんごにはきれいなものもあれば、きれいではないものもあるはずだ。あなたはその絵がりんごを象徴するように描くのに失敗したのではないか?


りんごという言葉が多種多様なりんごを象徴できるのと同じような方法で、絵にりんごを象徴させることはできない。


それとは反対に、リンゴとは何かを訊かれたとき、「りんごとはりんごである」ということもできない。「りんごを絵に描いたらこんな感じだ」ということはできる。


絵は言葉の役割を果たすのには不十分だ。だが、美しさを描くのには十分だ。


エイムアシストを使用せずエイムしているプレイ動画を見せて、「これこそが本物のエイムだ。エイムアシストを使用しているエイムなどエイムではない」と言うことはできない。プレイ動画はエイムという言葉の役割を代替するには不十分だからだ。だが、美しさを表現するのには十分だ。


3. 最後に


 3a. この文章は正しいのか?

少し長くなりすぎたかもしれない。2万字にもわたって、私はひたすらに考えを記してきた。これは談笑の断章である。笑みを浮かべながら考えたことの数々を再考し、順序を整理して並べ直した。その際に、必要に応じて付け加えたり、削ぎ落としたりした。この文章は冗談だ。あなたが笑みを浮かべながらこの文章を読んだのならば、この文章は正しいはずだ。あなたが、この文章があまりに退屈なので、途中で読むのを辞めてしまったならば、この文章は間違っているのだろう。

私がこの文章を書いてしまったのは、この文章でなされた考察の数々は、私にとって逃げることのできない問題だったからだ。「必要のない回り道をする者は不誠実だ」。―たしかに、その通りだ。ある人にとって、私がこの文章でやってのけた回り道は、不要なものかもしれない。私にとって必要であったかすら、私にはわからないことだ。しかし、私はすでに為してしまった。この事実は本当だし、必要なことだろう。

私は美しいエイムを映像にしたい。そのためにエイムを鍛えてきたのだと、最近になってようやく気がついた。私がこの文章以前に発言したことのほとんどは、単なる世迷い言だったに違いない。

私は私のエイムが何を狙っているのかをやっと知ることができたのだ。それこそがこの文章のたった一つの成果かもしれない。


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