合理的なFPSプレイヤーはエイムアシストについてどのように考えるべきか
議論に参加する資格のある者
FPSについての議論、たとえばエイムアシストに関する議論に参加する資格のある者とは、どのような者か。以下は、FPSについての議論に参加するための条件である。
(1)合理的(Reasonable)である
(2)論理的である
(3)FPS・TPSゲーム(以下、FPS)について、誠実である
(1)について、「合理的である」とは、自分の立場や行動について、理由を述べることができることである。
(2)について、「論理的である」とは、自分の立場を正当化するための議論の際に、論理的なエラーを起こさないように努力することである。
(3)について、「誠実である」とは、FPSを真剣に捉えて、FPSに関する議論にすすんで参加し、自分の立場を表明し、自分の立場と行動が合理的であり、両立することを目指す態度のことである。
(1)でない者が議論に参加するということは不可能である。自分の立場を説明することができないからである。
(2)でない者が議論に参加するということは可能ではあるが、論理的なエラーが指摘されても、自分の立場を採用し続ける者は自分の立場を説明できていないとみなされ、参加要件(1)に反する。
(3)でない者が議論に参加するということは無意味である。(3)でない者はFPSについての議論において立場のない者だからである。
FPSをプレイしていることとFPSをプレイしていないことの区別
命題「FPSをプレイしている」の意味についての規範的な問い
我々はオートエイムを使用している者を指して、「彼は良いプレイヤーだ」と言ったりしない。我々はオートエイムのプログラムを指して、「彼はFPSをプレイしている」とは言わないし、「彼はFPSをプレイしていない」と言う。
エイムアシスト=100%のとき、それはオートエイムである。では、エイムアシストに関して、どのようなときに、「FPSをプレイしている」と言い、どのようなときに、「FPSをプレイしていない」と言うのか。
立場①:「エイムアシスト肯定派」
エイムアシスト≦xのときFPSをプレイしている。
エイムアシスト>xのときFPSをプレイしていない。
この立場を取る場合、xとは何であり、なぜそうなるのかを議論に参加する資格のある者が合理的に説明しなければならない。つまり、「FPSをプレイしている」という概念を明晰化させる責任が伴うということである。しかし、この作業には多くの困難が伴う(この困難について詳しく知りたいのであれば、言語哲学を学ぶとよいだろう)。
立場②:「エイムアシスト否定派」
エイムアシスト≧1%のとき、FPSをプレイしていない。
この立場を取る場合、①を採用する人間がxの値に関する合理的な説明に成功したときには、この立場を破棄する必要がある。なぜならば、②の採用には、①の採用に伴う困難を避けるためということ以外に合理的な根拠がないからである。たとえば、説明不可能なこだわりを根拠として主張する者は資格要件の(1)に反するため、議論から追放される。
立場③:無関心
(0≦x≦100のとき)エイムアシストがx%のときゲームをプレイしている。
この立場を採用する場合、議論から追放される(資格要件(3)に反する)。FPSに関する最も重要な議論のうちの一つであるこの議論に関して、無関心を表明することは、FPSについて誠実ではないことを意味するからである。この立場を採用する者は、説明責任なくエイムアシストを使用することができる。
エイムアシストを使用してFPSをプレイするが、合理的な説明は避けようとする人が、議論の都合上、便宜上、採用する立場としてよく用いられる。しかし、そもそもこの立場を採用するならば、議論に参加する資格はないとみなすのが妥当である。
論理的に可能な議論
論理的に可能な議論は以下の通りである。
(A)FPSについて誠実、かつ立場①
(B)FPSについて誠実、かつ立場②
(C)FPSについて誠実でない、かつ立場③
(A)FPSについて誠実、かつ立場①
利点
議論に参加できる。合理的なxの値を説明できれば、②の立場を採用する者に説明責任を負わせることができる(反論を要求することができる)。
欠点
合理的なxの値を説明しなければならない。このとき、全てのFPSゲームと個別のFPSゲームを考慮に入れなければならない。
(B)FPSについて誠実、かつ立場②
利点
議論に参加できる。立場①を採用する者が合理的なxの値を説明しない限り、立場②を維持することができる。また、この立場を取る根拠として、立場①の欠点を理由にすることができる点で、議論にとって都合がよい。
欠点
立場①を採用する者が合理的なxの値を説明した場合、議論を破棄するか、反論する責任を負う。
(C)FPSについて誠実でない、かつ立場③
利点
エイムアシストを使用することについて、説明責任がない。
欠点
議論に参加できない。エイムアシストが認められることにも認められないことにも反対できない。論理的には可能だが、事実上不可能な議論。
論理的に不可能な議論
論理的に不可能な議論は以下の通りである。
(D)FPSについて誠実、かつ立場③
FPSについて誠実ならば、立場③を採用することはできない。
(E)FPSについて誠実でない、かつ立場①
FPSについて誠実でないならば、立場①を採用することはできない。
(F)FPSについて誠実でない、かつ立場②
FPSについて誠実でないならば、立場②を採用することはできない。
(G)勝負について誠実、かつ立場③
勝負について誠実だと主張することは、一見すると可能な立場かのようにみえる。FPSゲームにおいて勝負は大きな意味を持つから、資格要件(3)に反しないように思える。しかし、「なぜFPSをプレイするのか」に答える責任を負う。つまり、「なぜFPS以外の勝負ごとではなくFPSの勝負を選ぶのか」という挑戦である。これに合理的な説明がある場合、FPSに誠実であるとみなされる。これに合理的な説明がない(なんとなくFPSをプレイしている、など)場合、資格要件(1)に反する。FPSに誠実である場合、立場③を取ることはできない。
(H)デバイスの差に誠実、かつ立場①
FPSにおいて不利なデバイスがある。マウスとキーボードと比較されるときのコントローラーなどである。デバイスごとに有利不利の差があることについて誠実であるから、エイムアシスト肯定派の立場を採用する、という議論がある。これは、一見すると合理的な説明であるかのようにみえる。しかし、FPSに誠実であるならば、「なぜ不利なデバイスを使用するのか」という問いに答える責任がある。このとき、説明不可能なこだわり(「以前から使っているから」などを含む)を根拠にすれば、議論から追放される。つまり、エイムアシストの存在が認められなくなっても、反対することはできない。
よくある議論として、次のようなものがある。
…「コントローラーを使うのはなぜか」―「エイムアシストがあるから」―「エイムアシストを肯定するのはなぜか」―「コントローラーが不利なデバイスだから」―「コントローラーを使うのはなぜか」―「エイムアシストがあるから」…
これは典型的な循環論法であり正当化に失敗している。「エイムアシストが強いのが不満ならば、コントローラーを使えば良い」という議論はこの点で誤りである。
上のことからわかるように、不利なデバイスを使うことが合理的に説明可能になるのは、立場①を採用する者が合理的なxの値を説明し、かつそのxの値が、有利なデバイスを使ってプレイするよりも不利なデバイスを使ってプレイすることが、結果として有利になるまでに大きな値であるときだけである。しかし、これではデバイスの有利不利を逆転させただけということになるから、デバイスの差に誠実であるという立場を採用することは不可能になる。したがって、デバイスの差に誠実である者がコントローラーを使用することは非合理的であり、不可能な立場である。この立場は、有利なデバイスを使用している者のみ採用することができる。
「FPSゲームの運営合理性に誠実、かつ立場①」という難問
合理から倫理へ
「不利なデバイスのユーザーのために、エイムアシストが用意されていることは、プレイヤー人口の獲得に貢献している」などの議論は、運営合理性という観点から見て、合理的な説明であると言える。
さらに、FPSに関する議論に参加するためには、FPSについて誠実であることが条件であった。当然、運営合理性に関する議論に参加するためには、運営合理性に誠実であることが条件である。言い換えれば、参加要件(1),(2)を満たし、運営合理性に誠実であれば議論に参加できる。FPSに誠実である必要はないということだ。そのため、立場③を採用する者が議論に参加できることになる。
ここで問題になるのは、「FPSゲームの運営合理性に誠実であるということは、ただちにFPSに誠実であることにコミットするのではないか」という疑問である。たしかに、FPS以外のゲームの運営ではなく、なぜFPSゲームの運営を選んだのかを説明できなければならないだろう。このことについて、「FPSゲームを選んだ理由は、運営にとって合理的だったからだ」という説明が可能である。このように、最初から最後まで、徹頭徹尾、運営合理性に誠実であることを根拠に説明が可能であるならば、FPSに誠実でなくても、FPSゲームの運営をすることが合理的であるということになるだろう。
もしあなたが立場②を採用する者であるならば、どのように反論することができるだろうか。「FPSゲームについての議論における合理性を無視し、運営合理性の観点だけに注目してエイムアシストを肯定すれば、これに反発する者がゲームをやめてしまうなどの不利益が発生することが考えられる。これは運営合理性に反することになるのではないか」と議論を展開するかもしれない。しかし、「そのような事態にはなっていないので問題ない」と反論されうることを考えれば、困難な議論であることがわかるはずだ。
この論考のタイトルは、「合理的なFPSプレイヤーはエイムアシストについてどのように考えるべきか」であった。運営合理性に訴える議論は、運営合理性の観点から、FPSについての誠実さとFPSゲームについての議論の合理性を無視するという構造をしているから、この論考のテーマからは逸脱していると言ってよい。そもそもなぜこのようなタイトルをつけたかと言えば、「(説明可能性としての)合理と論理」という規範的な(「説明するべき」と「論理的べき」に支配された)思考の営みだけを扱ってエイムアシストについて語ることが目的だったからである。しかし、運営合理性に関する難問は、合理と論理を超えて、倫理を扱わなければならない。それは私の能力を超えた仕事である。
合理的なFPSプレイヤーはエイムアシストがあるFPSゲームをプレイするべきではない、という奇妙な帰結
前のパラグラフで、「FPSゲームについての議論における合理性を無視し、運営合理性の観点だけに注目してエイムアシストを肯定すれば、これに反発する者がゲームをやめてしまうなどの不利益が発生することが考えられる。これは運営合理性に反することになるのではないか」という挑戦を使って、FPSゲームについての議論における合理性を無視することは運営合理性に反すると主張することを試みれば、「そのような事態にはなっていないので問題ない」と反論されうるから、やはり困難な議論だと述べた。では、実際にそのような事態を起こしてしまうのはどうか。「FPSに誠実で、かつ立場②」を採用する者ならば、エイムアシストがあるFPSゲームをやめるのことが合理的な選択だと言えてしまうのではないか。もちろん、これはかなりラディカルな、急進的な、極端な議論である。しかし、運営合理性の議論は頑強な構造をしている。このような極端なことをやらない限り、この議論を先に進めることはできないかもしれない。それとも、倫理的なアプローチで、「FPSゲームを運営するならば、FPSについて誠実であるべきだ」という主張をするのが得策なのだろうか。倫理的なアプローチについては、私の見立てでは、やはり筋悪であろうと思われる。
この論考は何を語るか
この論考の結論は以下の通りである。
合理的なプレイヤーには、立場や行動の説明を要求できる。
論理的なプレイヤーには、論理的な無矛盾や無循環を要求できる。
FPSについて誠実なプレイヤーには、FPSをプレイしていることとFPSをプレイしていないことの区別を要求できる。
(A)の議論を採用する者には、合理的なxの値の説明を要求できる。説明できない場合、議論から追放できる。
(B)の議論を採用する者には、合理的なxの値を説明すれば、反論を要求できる。反論できない場合、議論から追放できる。
(C)~(F)の議論を採用する者には、議論に参加する資格を剥奪し、議論から追放できる。
(G)の議論を採用する者には、FPSをプレイする理由の説明を要求できる。説明できる場合、FPSに誠実であることを要求できる。説明できない場合、議論から追放できる。
(H)の議論を採用する者には、不利なデバイスのユーザーが不利なデバイスを使う理由の説明を要求できる。説明できる場合、FPSに誠実であることを要求できる。説明できない場合、議論から追放できる。
運営合理性の議論を認めれば、FPSについて議論することは無意味になる。
運営合理性の議論を認めないならば、エイムアシストがあるFPSゲームをプレイしないか、倫理的に反駁する必要がある。