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芸術とは?
このようなタイトルで良き話をしておられる歌手がおられました。なるほどと思いましたが、あくまでも演奏家の目線でのお話でした。その方は、芸術とは、非日常の世界を演出することだと、語られておりました。
日常的な音楽は芸術とはいわない。でも今では西洋クラシックの敷居を下げ、大衆化してビジネスにしようとしている。これが良いことか悪いことかはわからない。
その通りだと思います。
みんなで楽しもうということでしょうか?みんな平等、みんながわかるものが良い。だから易しい音楽でなければ価値がない。難解なもの(特に古典的なものなど)は時代遅れで価値がない。
これは昔仕事をしていた会社の、極めて左寄りの人族が叫んでおったことでございます。猫目石一家は、この人族と全く合わず、仕事を辞めた経緯がございます。
ウィーンフィルハーモニーの音。このオーケストラも出来不出来は大きく、一度聴きに行った時にはベストだとは思いませんでしたが、リヒャルトシュトラウスのようなこのオケと長い付き合いのある作家の作品は素晴らしかった。弦楽器の音色などは、独特で、良い意味で浮世離れしておりました。このオケに関しても、男女平等でなければいけないとかで、改革をしたせいか、かつての夢幻の世界から現実世界に近づきつつあるのではと思っております。
伝統を排除してしまうのは寂しい限りですね。
今は亡きカルロス=クライバーの音楽。われわれにとっては特別な指揮者です。以前みたリハーサル動画では、言葉の一言一言に詩情がこもっていたこと、バイロイトでの「トリスタンとイゾルデ 愛の死」を歌いながら振っていた動画には心身ともに射抜かれました。それがこちら です。こういうのを芸術と呼ばなくて、なんというのでしょうか?
愛の死というタイトルがそのままの演奏ではないかと。猫目石一家、真剣にみていて、音楽のうねりにやられました。あまりに凄すぎてほどほどにしておかなければ、戻ってこれなくなるような気持ちです。
YouTubeのコメント欄には「金に糸目はつけんから、DVDにでもして出してほしい」とありました。お金ではないんですね、ホンモノって。お金を投げ出させてしまうほど好きなものがあることは素晴らしいことでもあり、恐いことでもある。
大概このように考える猫族は雄猫でございます。雌猫は現実的だから、そこまでして欲しいとは思わないでしょう。特に目に見えないものに関しては・・・形に残るものなら、買ってもよいけど、芸術なんて飯の種にもならんものは、小遣いの残りで買える範囲でいいよ。とおっしゃることでしょう。
猫目石一家はどうでしょうか?おそらくばぁさんは高くても買うと思いますよ。久方ぶりに、クライバーの演奏を聴いて、おかしくなっております。
ピアニスト。カツァリスさんのピアノを毎日聴いておるのですが、心地よく日常が流れていきます。この方は、オケ曲や室内楽などをピアノ用編曲により、弾かれております。日常時間を流していく魔力のようなものを秘めている。
フーツォン。コロナで亡くなってしまいましたが、彼は美を痛みで表現することのできるピアニストなのではないか?と。ショパンにしても、モーツアルトにしても、どこか痛みを感じるのは、われわれだけでしょうか?
ドビュッシーの沈める寺なぞは、曲の中に遠近法を取り入れているのだなぁと、わけのわからない猫族にも気づきをくれます。
ブレンデルさん。変奏曲ばかり集めたプログラムを1日に2回は聴きます。なかでも、リスト作曲バッハのカンタータによるバリエーション「泣き、悲しみ、悩み、おののき」は神秘的で聴かずにはいられなくなっております。生活の中に音楽が組み込まれてしまっているというか・・・
ところで、われわれの考える芸術とは、二面性があることです。芸術性の高い音楽は、外側から内側に必ずむかっていきます。日常重視の音楽は、外側だけで終わってしまうんです。
内面とは非日常の世界だと思いますし、マインドフルネスでいうところのもう一つの自分ではないかと思います。上に記したクライバーの演奏なぞも、普段は出さない部分(隠された部分)が引き出されているからこそ、聴衆のみなさんの気持ちを解放し、お金なんてどうでもいいやと思わせる方向にひっぱってきてるんですね。
長々と好き勝手なことを書きました。また暇な折、続きを書きます。