まるでオートのように、その2(ワクチン摂取と死について)
前回に引き続き、最近で思っていることを書いていきます。
※扉絵は昔描いた模写。
■本日(8/19)、モデルナワクチンの摂取2回目でした。
幸いなことにアナフィラキシーショックはなく、即死は免れました。ただ、世の中の方々の色んな症状を見ていると、1週間、いや1ヶ月くらいは気が抜けないなと・・・(大袈裟)。
少なくとも、明日から数日は熱と倦怠感で散々なことになる予定ですので、皆様ご支援よろしくお願いいたします(大袈裟)。
ということで、今日は朝から死ぬ前提であれこれ考えてました。
■もし死ぬなら、これまでの全てに納得できる?
これまで生きてきて、不満は沢山あったような気がしましたが、まあそんなことはどうでも良く、結果的には幸せで恵まれた人生だったなあ、と感じました。「やりたいことをなんでもっとやらなかったのだろう」とも思いましたが、もう死ぬんだしそれを言っても仕方ないか、と。
あと気付いたのが、誰かに対する妬みや怒りは全く出てこないものなんですね。もう死ぬとなると、どうでも良いことは本当にどうでも良くなる。他人と比較して一喜一憂することが、僕のあらゆる行動に影響してましたが、そういうのって僕にとっては本来どうでも良いことだったんだなあ、と。
■もう少し生きれるなら、何をする?
もう少し生きれるなんて、そんなラッキーなことがあるならば、生活を作り変えるかなー、と思いました。
これまでは、「やってて楽しいこと」とか、「心地よいこと」は、あくまで生活を彩るプラスアルファの要素でしかなかったのですが、そういった「起こしたい感情を起こすこと」を中心にして、全ての行動を選んでいくようなイメージが湧きました。
ワクワクする服や物だけを残す断捨離が流行りましたが、それを行動すべてに当てはめるようなイメージです。もちろん仕事も含めて。
■人生を振り返ってみて
ふと思い出したのですが、中学生や高校生の頃、もともと僕は進学や将来についてあまり真剣に考えてなかったなあ、と。友人たちがワイワイ受験勉強やってる中で「いやもっと上を目指そうよ、いけるよ」なんて言われているうちに、「そういうものなのか」と思って勉強するようになって、受験→就職→サラリーマンの道を歩みました。全部自分で選んでいたようで、実は流されまくっていたように思います。
と言うのも、高校生の時に廊下を歩きながら、「あれ?なんで俺美術部に入ってないんだろう?」と思ったのを今でも思い出します。心が求めていることと現実の行動にズレがあったのでしょうね。今の僕なら「じゃあ入れば良いじゃん、さっさと入ろ」と思いますが、当時はその違和感を放置してしまいました。そして、これと同じようなことを今もやっている気がしました。「あれ?なんで俺漫画家じゃないんだろう?」と。
■腕がかなりだるくなって来ました。
ん〜なんかダルいね、ダルダルッ!
■おやすみなさい
現実的に死を感じることで、心の声を聴いてみました。僕は会社員てガラじゃないよなー、って話です。
田舎に引っ越して生活費(特に家賃)が安くなったことは大きな追い風です。そういえば今年の目標はこんなことでした、と言うことで、おやすみなさい。
⬛︎接種後の経過観察(追記)
12時間→このブログ書けるくらいには平気
16時間→38.4℃、悪寒、倦怠感。つら
21時間→解熱剤と冷えピタで37.8℃に。つら