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遠距離攻撃型の愛について

愛の遠距離型と近距離型

私は、「愛の遠距離攻撃型/近距離攻撃型」という概念について考えてて、以前、哲学塾・山括弧塾を通じて、哲学者・永井均先生とそのことについて話すことができたりしたので、その記録と、それについて思うことを書いていきます。

愛する対象が、自分から遠いか近いかの違いによって、私は人々をこう区分する。
遠距離攻撃型の愛は、道徳とか倫理とか言い変えられるかもしれない。対して、近距離攻撃型の愛は、仁義とか絆とか親子愛だろう。

人が愛するのは、ふつうその人にとっての「近い人」ではないのか?と疑問を抱く人もいるかもしれない。
ところがもちろんそんなことはなく、例えば思想家なんてものは「遠い人」を愛する人間の典型ではないかと考える。
なかでも遠距離型の愛に特化した人物として、『社会契約論』を書いた啓蒙主義の思想家・ルソーを挙げたい。フェルナンド・ペソアという詩人は、ルソーについてこう書いた。

「ルソーのように、人類を愛する人間嫌いがいる。私はルソーに強い親近感を覚える。ある分野では、私たちの性格はそっくりだ。人類に対する、燃えるような、強烈な、説明できない愛、その一方で、ある種のエゴイズム。これが彼の性格の根本だが、それはまた私のものでもある。」

「人類を愛する人間嫌い」という言葉は、ルソーのことを見事に言い表していると思う。
人類は愛せるけど、身近な人間をうまく愛せない。ルソーは、そういう根源的な寂しさを抱えている。ルソーが『社会契約論』を書いたおかげで私達は人権のある社会で暮らせてると言ってもいいし、彼は人間愛に溢れる思想や社会基盤を作った、偉大な人物である。
しかし当の本人は、自分の子供を5人も捨てたひどい父親である。どういうことなんだ…と思ってしまうような矛盾を、ルソーという人物は抱えている。
ルソーは自分の5人の子供達を、生まれてすぐに次々と孤児院に放り込んだという。酒飲みの母親のもとで育てるとダメになるから、そうならないようにと思ったそうだが、それなのに次々と子供を作る意味は分からないので理由になってないと思う。
あとは、娼婦に対して見た目の欠点をあげつらい、「なんでそんな変な顔なんだ?」と詰め寄ったという話もあったり、けっこうなめちゃくちゃぶりだ。

哲学者・永井先生との談話

そんなわけで、ルソーについて、かつての永井均先生との会話を引用します。全く関係ない森田童子と高橋和巳についての話から始まるのですが、そこから遠距離/近距離の愛の話につながりました。

私「森田童子は、学生運動や自殺した友達のことを、切々と涙をこぼしながら歌うのに実際は学生運動など参加しておらず死んだ友達も存在せず、全てが『嘘』の不気味な存在だと仰っていましたが、歌詞に出てくる、学生運動を描いた高橋和巳の小説は本当に読んでたんでしょうか。世界観と言語感覚が似ている気がします。読んでたとしたら、高橋和巳の小説の世界での擬似体験を歌にしてるといえ、ある意味で嘘ではないのでは」

永井先生「読んでたでしょうね。高橋和巳は森田童子の曲の中で唯一、固有名詞が出てくる作家ですね。『漱石』も出てきますが、こちらは古典なので。まあ疑似体験というのは、結局『嘘』だということになりそうですが。ところで高橋和巳は、妻への暴力が問題になってましたね。」

私「ルソーみたいですね」 

永井先生「そうですね。」

私「ルソーは思想的に素晴らしい理想を打ち立て、社会と人権のために尽力してくれた人ですが、実際に接する身近な人に対してはかなりどうしようもない人でもあります。高橋和巳も、世界平和のための理想を掲げる一方で、妻には暴力を振るった。私は、そうした人々を『遠距離型の愛』と呼びたいです。左翼は遠距離型です。ペソアはルソーを『人類を愛する人間嫌い』と称し、ペソア自身もそこに共感すると言っていましたが、まさにそれです。逆に、右翼の場合は、外国や遠く離れた人には薄情だが、家族や身内には優しい傾向にある気がします。ヤンキーもそうですね。これを『近距離型の愛』と呼びたいです」

永井先生「そうですね。左翼とは、自分から遠くなれば遠くなるほど愛せるという人々ですね。日本の反対側はアルゼンチンなので、日本の左翼は『アルゼンチンの人達を守れ!』と、距離的に一番遠い人々を守るように主張したらいいかもしれませんね。何だそれはって感じですが。左翼はよく、身内に薄情だともいいますね」

私「言いますね。左翼はよく内輪揉めもしていますし、内ゲバで壊れるのが左翼、腐敗で壊れるのが右翼とも」

他の塾生「ヤンキーや右翼のように、身近な人にやさしくするのは自然で良いことのように思いますが」

私「優劣ではないと思います。向き不向きで、どちらも出来る事が違うのではないかと。遠距離型の愛でしか救えない存在もありますし」


以上、話はあちこち行きましたが、こんな話でした。余談ですが、ファシスト党・外山恒一は、自身が警察に捕まった際、沢山いた左翼の仲間達はひとりも面会にきてくれず薄情で、右翼の友達だけがきてくれたと嘆いていたそうだ。

遠距離型の寂しさ

「人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛するよりも容易である」

と、哲学者・エリック・ホッファーは言った。それはわかる。ルソー、ペソアに並べるのは恐縮だけど、私も確実に遠距離攻撃型の愛の持ち主で、人間達が苦しまず生きるにはどうしたらいいかについてはずっと考えてるし、それで哲学や道徳や倫理学を学んでいるところもあるし、戦争や人が残酷に死んだニュース等を見たら一日中落ち込む。
ガザやウクライナの話を聞いては、もういっそ世界が滅びてくれないか、代表して私が死ぬから、なんとかならないか…などと思っている。もちろんなんとかなるわけはない。
世界を救うためにしにたいと思ったりするが、そんなことはできないから問題なのだ。しかし他方で、私はしょっちゅう人と揉めるし、何かとすぐ嫌になって心の中で人を切り捨てるし、カフェや飲み屋なんかに行ってうるさかったりするとすぐに退店する。
ぜんぜん生身の人間を愛せていないのだ。そして、無駄に揉めないために、よほど好きな人間以外からは離れていく。
そしてその、「よほど好きな人間」との関係においても問題があり、たとえば性愛という関係性では確かに深く溶け合えるし、私は孤独さの裏返しとして性愛に耽溺するような人間だが、衝動性が裏目に出て愛は執着とエゴになり、支配的で狂気的になってしまう。

ちなみに子供の頃は、家族とも仲が悪くてしょっちゅうケンカしていた。それでいて人に好かれたいから、表面は感じよく柔和に取り繕うので、ますますわけがわからない。私はずっと寂しい。
なので、せめて、「人類」を愛したいと思った。(そして、全体的な愛ではない愛…たとえば、「ホモソーシャル」や、「身内びいき」といったものは人一倍嫌いである)
そういった種類の人のなかには、愛に溢れた作品を作ったり、実際に沢山の人々の命や生活を救ったりしてる方々もいる。基本的には、世界も芸術も、そういう種類の才能ある人々によって発展してきたと思う。
だからそういうものを見ると心が落ち着く。たとえば次のような詩。

「誰も他人を愛することはない 愛するのは/他人の内にある あると思っている自分だけ/愛されないことを 思い悩むことはない/お前をあるがままに感じただけ つまり異邦人として/自分であろうと努めよ 愛されようが愛されまいが/自分自身とともに閉じこもれ 少しずつ/自分の苦しみを苦しむのだ」

フェルナンド・ペソア

彼はほかにも、「人を愛する人は、自分に飽きたのだ」というようなことを言っていて、こうした孤独な詩を読むと、私はとても安らいだ気持ちになる。

私はボランティアや政治運動に精を出した時期もあったし、なにか思想とか作品とかを発信する形で世界を愛していきたいとも思っていた。でも、それにも才能が必要だから茨の道だ。

ところで、「愛の近距離攻撃型」の最たるものは、右翼と、あとヤンキーだと思う。外国人に対して差別的な言動をする極端な保守派が身内には優しく、反対に、リベラルが身内に厳しいというのはよく聞く。
「厳しい」というのは、言い換えれば自浄作用があるということで、そこにはひとつの好ましさがあるが、高橋和巳やルソーのように身内に暴力的だというのは、あまり好ましくはないだろう。右翼は腐敗で、左翼は内ゲバで崩壊するという言説も、両サイドの身内に優しい/厳しいという性質の現れだろう。
以下は、冨樫義博『ハンターハンター』の主人公ゴンによる、冷酷な盗賊集団・幻影旅団に対する怒りの言葉だ。幻影旅団は近距離型の極致といえるかもしれない。

「仲間のために泣けるんだね、血も涙もない連中だと思ってた。だったらなんでその気持ちをほんの少し・・・ほんの少しでだけでいいからお前らが殺した人達に、なんで分けてやれなかったんだ!!!」

ゴンは、同様に残酷だけど仲間思いではないヒソカやゲンスルーにはこんなふうに怒らないのが興味深い点だ。



「遠距離型の愛の人は報われないよね」
と、永井先生と私の会話を聞いていた塾生の人が話していた。
確かに、そういう人が最大公約数的な意味で、「幸せ」になることは難しいと思う。その人は続けて言った。
「ヤンキー的になりたい。なんか憧れる」
それに対して私は、
「私は絶対無理。家族とさえ上手くやれなかったし」
と言うと、
「それは自分もだよ。なれないからそういうのに憧れるんだと思う」
と、その人は言っていた。
多くの人は、自分から近い存在は自分の一部として感じられるから愛しやすい反面、遠い存在は愛しづらくなるだろう。
しかし、その逆の人間も居るのだ。遠い存在と自分との区別がつかなくて、世界の知らない人の苦しみも自分の苦しみのようにリアリティを持って感じるような。

これを私の優しさだと受け取ってくれる人は多かったし、私はそこにアイデンティティを見いだしていた部分もあったが、恐らく、たんに自他境界がおかしいだけなんだろうと思う。
また、だからか、私は道徳という言葉で表されるものを基本的にありがたく尊いと感じている。道徳は、遠いものも近いものも均一化してくれるからだ。

私は結構苦しいのだが、私に似た人々にはどうか美しく孤独に生きていてほしいと思ってしまう。

何にせよ私は、根源的な寂しさを持っている人間が、たまらなく好きなのだ。

#コラム #哲学だより #哲学

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