優しいあり方「中動態」
北海道弁の「おささった」という言葉が、日本語のなかでも極めて異質であるというツイートを見かけた。
「おささった」は、「押した」でも「押された」でもなく、
押すつもりはなかったけど自分の意思とは関係なく押してしまった。
ーという意味らしい。
良い言葉だな、と思う。
この言葉は、「中動態」だ。
日本語や英語の動詞は、能動態(する)と、受動態(される)の二つに分かれていて、私はそれが当たり前のように思っていたけれど、実は普遍的なものではなくて、たとえば古代ギリシア語やアルバニア語などは、能動態と受動態の間にある「中動態」がメインだという。言葉がどれほど人間を規定するのかというところもふくめて、とても興味深く思う。
中動態は、(自分の意思とは別の原理で)ただそのようになった、ということをあらわす。
能動態や受動態のように、した/された、の関係ではないので、そこに意志や責任が存在しない。
我々が本当に意志をもってやっていることは、どれだけあるだろう。そもそも、意志なんてものは存在するのだろうか。
去年くらいから複数の哲学好きの知人から「中動態」という言葉を聞くようになった。
そう今、中動態がアツイ。(むしろ今更感がある)
ところで私は文章を書くとき、勝手に湧き出てくるものを拾いあげていく感じで書くことが多くて、そうでないと、無味乾燥なつまらない文章になってしまう。
なので私が文章を書くときの多くは、中動態であれているのかなと思う。
能動態と受動態の世界ー「した」のなら責任をとれ、「された」のなら免除する、といった言語体系では、人達は常に責任のありかを求められることになる。
そうした意味で、すべてを現象のように扱う、「中動態」は、優しい世界を作ると思う。
人達はもっと現象になれる。
そして私も、中動態で居たいなあと願う。
#哲学だより #コラム #中動態 #哲学
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?