「帰国(帰国子女)」のアイデンティティ(自己同一性)と葛藤
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日本に帰国したばかりの私のアイデンティティは、ある意味、拡散の寸前と狭間を行き来していたように思います。アメリカの文化に慣れ親しんだ私の人格と、生まれてから補習校の4年間で培った日本人の人格や感性が、自分の中で齟齬を起こすことはしょっちゅうで、未だにまだあります。
ただ、日本の文化の闇の一部に嫌悪を抱きつつも、生物学的には日本人であるという事実が私を救うことはあるように思います。
根無草のふりをした、根を地に下ろした草のようです。表面上だけ目立たないように同化を試みつつ、完全には同化できないし、したくないのです。人間社会では、やっかいです。
人の苦しみの殆どが人間関係のトラブルであるとも言われる昨今にこんな条件を持って社会生活を営まなければならないのだから…。
ただ、これは「帰国」に限らず、マジョリティ以外の誰もが感じることでしょう。もしかしたらHSPの方も感じているかもしれません。
なんだかこれはこれで確立したカテゴリーや説明の仕方がないような気がします。
日本人であることとは何をもって証明するのでしょう。マジョリティであることをどう意識するのでしょう。
そもそも、ラベル付けをすることで生まれるものはつながりでもあり分裂でもあるのかも知れません。
では、自分を「帰国」とラベル付けをしてこの記事を書くことが、後に差別やステレオタイプに繋がってしまうのでしょうか。そうならないことを祈るばかりですが、きっと既に起きている事態なので(私は「帰国」と羨ましがられる一方で、日本語の不出来や「常識」知らずを揶揄われることは日常です。)私はこの記事を書いているのかもしれません。
そんな矛盾を人より抱えやすいのが「帰国」の特徴であり、強みであり、弱みでもあるのだと思います。
しかし、あんなに嫌いだった制服も、高校を卒業した今となっては着てよかったなと思ったり、変わらないでほしいなと思ったりするので不思議です。
また、辛かった高校生活も、終わってしまったからなのか、そもそも綺麗なものだからなのかわかりませんが、思い出はなぜかキラキラしているのでこれも不思議です。
私の高校は、実質今年で無くなってしまい、別の共学の学校に生まれ変わってしまうのでこれもまたなんとも言い難い喪失感を抱きます。これまでの伝統や歴史を継ぐ人がいなくなってしまうことは切ないことです。だからかもしれません。制服に対する気持ちに変化が生まれたのも、高校時代に反抗的な思いをひた隠しにしつつ、すべきことを淡々とこなして過ごしてきたから、いざ無くなってしまうと知ると名残惜しいのかもしれません。もうあの制服を着て、自分が辿ってきた道を歩む後輩を見ることはないのです。
変わるべきこと、変わらなくていいこと、変えるべきではないこと… これらの線引きはどう行えば良いのでしょうか。この質問すら愚問でしょうか。変えることが、常に正しいのでしょうか。
自然に変わるとは、どういうことなのでしょう。
変わることで、泣く人と笑う人が生まれます。
皆を満足させることはできません。
ただ、若干俯瞰して日本や世界を眺めると、変えるべきことを迅速に変える社会でもいい点と悪い点が見えてきます。
すぐに変えることも、変わらなすぎることも長期的には悪影響があるのかもしれません。
ある大学の教授は中庸が大事だと言いました。
全てにおいて、良い(good)ことと悪い(bad)ことは表裏一体であり、あるのは、advantage(意訳するのであれば、利点) と、disadvantage(不都合な点)なのだと言いました。
良いも悪いもの状況が変われば変わりますよね。モラルにさえ違反していなければではありますが…。難しい…。