ゾイドは兵器か、相棒なのか。
ゾイド愛好家の間で(特に平成アニメ期以降)度々語られてきたのがこの問いである。
しかし、個人的にこの問題については正直あまりいい思い出がない。何故なら「ゾイドを兵器扱いしている」という言葉は往々にして「故に駄作である」という文章の前提として使われ、逆に「ゾイドは相棒である」は疑うことの許されぬ絶対的不文律として使われがちだからだ。
昭和・平成・令和のゾイド、キットの裏書きから書籍、アニメに至るまで全てのゾイドを愛好する者として、この「ゾイドは兵器か、相棒か」の議論はゾイド愛好家を分断する禁忌のテーマと思っていた。そのためゾイドワイルド始動時には不安と期待入り交じる思いでそのキャッチコピーを見た。
「相棒か、兵器か」
公式がついに切り込んできたか。
アニメ作中では度々触れられてきた。主人公はゾイドを相棒と呼び、単なる戦闘兵器として使うキャラクタは悪サイドである。
しかし、公式がシリーズそのもののキャッチコピーに使うのは初めてではなかったか。改めてこの相棒/兵器問題は目を背けられぬテーマとなってしまった。
単刀直入に持論を述べれば、「ゾイドは彼の惑星における最強の兵器である」。
ゾイドは(特に地球人の来訪後)敵対勢力を打倒するために人間の手で武装させられ、改造され、造られた金属の獣だ。これを兵器と言わずして何と言おう。
子供騙しと子供向けの違いは何か、を語る際に私は「ゾイドバトルストーリー」を例に出す。あのシリーズの読者に対する真摯さは正に「子供騙しではない」。
そんなゾイドバトルストーリーだが、あのシリーズの主人公は何だろう。ゾイドか?一騎当千のパイロットか?どちらも正しいが、どちらも少し違う。
素晴らしいジオラマとそこで見得を切るゾイドの数々は、少年たち(そして今中年である私たち)の心を踊らせ、購買意欲をそそらせた。だが、テキスト上ではゾイドたちは意外にも脇役なのである。メインはそのゾイドを操るパイロット、そして両陣営の長たるへリック大統領とゼネバス皇帝たちだ。
つまり、無敵のエースパイロットが主人公というわけでもない。ゾイドバトルストーリーは、戦争に翻弄される愚かで弱い人々の物語だ。販促グッズにもかかわらずゾイドはその物語の背景であり小道具なのである。これが、私がこの物語を子供騙しではないと信頼する根拠である。
ここまで読んだ方は「お前はゾイドを相棒ではないと言うのか」と憤っているかもしれない。もしくは途中で読むのを止めてしまった人も少なくないだろう。
しかし、「ゾイドは相棒ではない」も私の真意ではない。何故なら、かつてあるゾイドは、確実に私の相棒だったからだ。そのゾイドをイグアンという。
イグアン。「ゴドスのコピー品」として有名で「ジオラマでは大抵やられ役かモブ」であり「アニメ作品には登場しない」地味なゾイドだ。
しかし私にとってイグアンこそ最高にして唯一のゾイドなのだ。何故か。それは、このゾイドこそ5歳の私が初めて親に買ってもらい、組み立てたゾイドだからだ。ゼンマイをドキドキしながら巻き、テーブルの上に乗せるとイグアンは
後ろに向かって歩きだした。
…そう、ゼンマイを逆に入れてしまったのだ。
それから何体もゾイドを手に入れた。バイトをして貯めた金で地方を巡り、玩具店でゾイドを発掘する(まるでゾイドジェネシスだ)こと十数年。実家の物置には数十体のゾイドが眠っている。
それでも、三十年以上経た今も、私の相棒はイグアンなのだ。
つまりそういうことだ。ゾイドは兵器なのだ。殺戮と破壊の道具なのだ。これは紛れもない事実。だが、玩具を手にし、書籍を読み、アニメを観た子供たちにとって、ゾイドは掛け替えのない相棒なのだ。
そしてそんな子どもたちの目の前でも「奇跡」は起きる。
物言わぬ機械の獣と死線を共にしたゾイド乗りたちは、その乗機がいつしか単なる兵器から相棒となる。
トビー・ダンカンも、レイヴンも、ザイリンも、自らの命を預けるパートナーとして愛機で強敵に立ち向かっていった。
アニメだとゾイドジェネシスが顕著だ。この作品では多くの人々はゾイドを(アバンのナレーションとは裏腹に)生命体とすら思っていない。先祖が残した便利な道具、重機、兵器程度の認識である。
だが、主人公が最後の困難を打ち破るためにした行為は「自らが操るゾイドに祈る」ことだった。ムラサメライガーは最終話にして、ルージと相思相愛のパートナーとなったのだ。
ゾイドジェネシスという物語のメインテーマではないが、この主人公とゾイドの関係性はこのアニメの完成度を底上げすることに寄与していると思う。
改めて言おう。
ゾイドは兵器だ。そして素晴らしい物語の中で「相棒となりうる」。キャラクタにとってだけでなく、我々にとっても。
これからもゾイドがそういう存在であり続けることを願って、この駄文を〆させていただこう。