指を切る
2022年になってから既に2回、包丁で指を切った。
私が不器用なのに加え、昨年の大晦日に、刺し身を切るために妻が包丁を磨いでくれたので、切れ味が増していたのだ。
私は血が苦手だ。自分のちょっとした流血で頭がクラクラする。
中学生の頃、教室で暴れて窓ガラスを割ったことがあった。私はガラス片で脚を切り、気絶した。自分から流れる血を見てぶっ倒れたのだ。
今でも採血の度にしばらく動けなくなるし、脈をとられるだけで気分が悪くなる。
こんな性分でよくもまぁエログロ好きをやってられると思うが、他人の血は全く気にならないから不思議だ。
そんな血がダメな私なので、サックリと指を切った時は軽くパニックを起こした。流水で傷を洗い、水を拭かぬまま絆創膏を貼り、剥がしてまた貼り直し、血が止まらないのでまた剥がしてティッシュを巻き…などとしている内に、フライパンの上で作りかけだった焼き飯を焦がしてしまった。
焼き飯が焦げたのは誰のせいか?
当然、コンロの火を止めなかった私のせいだ。包丁のせいではないし、勿論包丁を磨いだ妻のせいでもない。
よく切れる包丁は料理人の手もよく切る。しかし、食材が切れねば包丁は役に立たない。
言葉は刃物に似ている。洗練された言葉は単なる文字や音の域を越え、多くの人々の心を揺り動かし、時として世界の情勢に影響する。
一方で、言葉の鋭利さは人を容易に傷つける。
言葉を放った者が意図せずとも、更に言えば、放った者と受け取るものとの間に何の人間関係がなくとも傷つける・傷つけられるの関係が生まれやすいのが、SNSという既に陳腐化した単語を口にするのもこそばゆい、今の時代である。
私が美味しい料理を多くの人に味わってもらおうと振るった包丁が、何処かの誰かを傷つけているかも知れない。
どんなに慎重に言葉を選んでも、包丁が刃物であるのと同じく、言葉が言葉である以上、人は傷つくのだ。
しかし人を傷つけることを恐れて、包丁や言葉の使用を禁ずることは愚かしいことだ。
私たちがすべきことは、「自分は人を殺しかねない道具を使っている」という認識と覚悟を持って発言する、それだけだと思う。
「誰も傷つけないお笑い」なんて言葉が一時流行ったが、そんなものは幻想である。