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荻窪随想録6・杉並図書館(と、<少女フレンド>と、少女小説の『少年は行ってしまった』)

私は荻窪の団地住まいで、図書館にはいつでも歩いて行けるところに住んでいた。
それが、当たりまえなのだと思っていた。
しかし、親がマイホームを建てたために引っ越した、横浜のはずれの町には図書館がなかった。図書館までは、電車に乗って8駅。古本屋もなかった。古本屋は電車に乗って3駅。新刊書店は確か2軒あったと思うが、今も残っているのは1軒しかない。古本屋は今でも1軒も存在していない。

私には考えられないことだった。歩いていけるところに図書館も古本屋もないということは。特に中学に上がって、それからがもっといろいろな本を読むようになるはずの時に、図書館が身近に存在していないというのは多大な損失だった。

それが、長いこと私が横浜になじめなかった大きな理由の一つだった。

新しくできた中学の友だちが――その人が(は)私に、その頃連載が始まったばかりの萩尾望都の『ポーの一族』がすごくおもしろい、と教えてくれた人だったのだが――その、電車に乗って8駅の横浜市の中央図書館まで案内してくれた。

仕組みがよくわからなかったが、中学生は大人ではないということで、大人たちが入場制限で閲覧室の外に立って延々並ばされているなか、その横をすり抜けて本のある部屋に入っていき、書架の前に立って本を選べたのだけが利点だった。児童向けの本のあるところもあったはずだが、ろくな本はなかったと思う。ただし、そこで借りたので覚えているのは、70年代初頭の大ヒット映画であった『ある愛の詩』(『ラブ・ストーリィ』)の原作の翻訳書と、ビートルズの訳詩集ぐらい。

もう童話ではなかった。大人になりつつある年齢だった。

しかし、その『ある愛の詩』に私が最初に触れたのはまんがによってであって、それもやっぱり杉並図書館でだったと思う。

杉並図書館では、一時、児童室に週刊<少女フレンド>を毎週仕入れていた。『ある愛の詩』はかなりの話題作であったため、菅沼美子というまんが家によって、<少女フレンド>に短期連載されていた。

当時、母親によって、まんが雑誌は月に1冊しか買ってはいけない、という制約を課されていたため、私は本と同じくらい好きで読んでいたまんがが思うように読めなくなった。しかしそれでは、連載まんがの筋がさっぱりわからなくなってしまう。ところが、まるで助け舟を出すかのように、ある頃、児童室の書棚に<少女フレンド>が並ぶようになり、それで、続きもののまんがを一時期はほぼもらすことなく読むことができていたのだった。
まんが雑誌の貸し出しはしなかったので、図書館の児童室で読むのに限られていたが。

でも、それは今から考えても、やはりかなりの恩恵となったことだろう。自分が大人になろうとしていく時、どういうわけだか少女まんがも大人びた作品がぽつぽつ描かれるようになってきて、大和和紀の『真由子の日記』(原作:島中隆子)や、神奈幸子の『妹よ その愛をそだてて…』(原作:西谷康二)といった危うい年頃の少女を描いた連載まんがを非常におもしろく感じながら読んでいた。これを、当時のその世代の子が同時期に読んでいるのといないのとでは、その後の精神に与える影響がかなり違ってくると思われる。

そういった、いわばジュニア向け(今の言い方ではヤングアダルト向け)の小説も、杉並図書館の児童室にはちらほら置いてあった。その中でやはりなんとなく手に取って借りて読んでみたものの中に、立原えりかの『少年は行ってしまった』(偕成社)というのがあり、これがまたすごく気に入ってしまって――ただし、気に入ったのは思春期の少女を主人公にした幻想的な物語もさることながら、挿し絵のほうが強かった。水田雄壱という画家の描く人物の髪は常に風になびくかのように横に飛んでいて、これが私には非常に斬新に感じられ、小学校の卒業文集に載せた文章につけたイラストでまねをしたぐらいだった――これはどうしても自分でも持っていたい、と思い、横浜に越した後で、親に頼んで自分の住んでいる町の本屋で注文してもらった。

水田雄壱による挿し絵

しかし、いつまで経っても本は届かなかった。本屋に電話で確認するたび、「ええ、まだ入らないんです」という答えばかりで――すなわち、田舎の本屋ということで、流通から後回しにされていたらしい――ようやく届いたという連絡が来たのは、注文してからほぼ半年後だった。

たった一冊の子ども向けの本を手に入れるために半年も待たねばならない町。

だが、70年代初めの横浜のはずれの町などそんなものだった。有隣堂のような大型書店に注文していればそんなことにはならなかったのかもしれないが、荻窪では町中の書店に注文しても大して待たされることなどなかったので、そんな目に遭うとは親子して思いもよらなかったのだった。

でも、その時に注文しておいたのは賢明だった。この本もすでに杉並図書館からは消えている。書名のとおり、『少年は行ってしまった』も、杉並図書館からどこかに行ってしまったのだった。

だが、そんな言い方をしながらも、私はこの本は自分で今でも持っているし、実はほぼ毎日、この水田雄壱の絵とこの少女小説とを思い出している。
自宅のトイレに入って、洋風便座に座って前を向くと、少し目を横にそらしたところに見える壁紙の抽象的な模様が、この小説の中で、ウェデイングドレスをそれと知らずに着て得意げにゴーゴーを踊る――そして後で知って泣き出す――主人公の少女に見えてしかたがないからだった。
実際の本の中には、そのシーンそのものを描いた絵はない。でも、壁の上で曲がりくねっているなにとも言いがたい模様が、私の目には水田雄壱の筆による、髪をなびかせながら両腕をふり回して踊る、少女の姿のように見えるのだ。それと同時に、小説の中のその下りも思い出される。

みんなが自分に注目しているのは、自分がきれいだからだと思っていたのに、だまされてウェディングドレスを着させられてゴーゴーを踊っていたからなこと。それを知って泣きながら店を飛び出す少女。それを追ってくる少年……。

水田雄壱による挿し絵

この物語には当時の少女まんがのような潔癖さと、恋愛へのあこがれと、それでいながら、まだ大人になりたくないというような怖れや不安とが詰まっていた。不良少年、夜の遊園地、お祭り、と、人によってはいかにもなお膳立てでつづられた物語に見えたかもしれないが、その夢だか現実だかわからないような話は、その頃の夢見がちな年頃の女の子が読むのにはぴったりな本だったろう。

杉並図書館の児童室にあったおかげで私が出合ったこの本は、その挿し絵とともに、今も私の心の中でずっと息づいている。なつかしい思い出としてあるわけでも、遠い日の記憶としてあるわけでもない。今でも私のすぐそばで、命あるものとして生き続けているのだった。

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