荻窪随想録33・ダストシュートと、消毒車
団地の燃えるゴミは焼却炉で燃やすことになっていたけれど、生ゴミはどうしていたのかというと、それは各階段の踊り場ごとについていた生ゴミ専用の投入口から、垂直型の空洞に放り込むようになっていた。
それのことは、みんな、ダストシュートと呼んでいた。どこでもそういったものは、そう呼ばれていたのらしい。
これの発案者はいったい誰なのか。上のほうの階と地上とを最も速く結ぶには、垂直に動く昇降機(すなわち、エレベーター)があればいい、という発想と同じく――荻窪団地には、特にエレベーターはなかったが――自然落下の最短距離でゴミを地上に到達させるのが動力源も不要でナイスだ、と思ったのかもしれないけれど、そうすると実際にはその一番下でどういったことが起こり得るか、ということを、よくよく考えて造られたものとはとても思えなかった。
上部に取っ手のついた鉄製の扉を、手前に倒すようにしてパカッと開けると、確かその扉の下側が受け皿形になっていて、そこにゴミを詰めたビニール袋を載せて閉めれば自然と下に落ちていくという造りだったと思うが、4階の高さからもそうやって落とすので、真下に着いた時にはぐしゃっとつぶれてビニール袋が破れ、水気の多い生ゴミが飛び散りかねない。そして、一番下のゴミを溜めるところの扉の向こうでは、業者が回収に来るまでそのありさまで生ゴミが積み重なっていく、というわけだ。
少し考えてみれば、害虫の格好の発生場所となるのはわかるはずだった。でも、造ったほうでは、誰もそこまで細かくは考えていなかったようだった。
1階の私のうちには、これのせいでなのかよくゴキブリが出没した。
ちなみに、私の母は長岡市出身だが、東京に出てくるまでゴキブリを知らなかったという。だから、壁に張りついている巨大なゴキブリを初めて見た時、「あれ、あんなところにおっきな虫がいる」と思ったそうだ。
それが害虫として忌み嫌われるようになるのに、それほど時間はかからなかったことだろう。
あの頃は一家団欒の場面に突如ゴキブリが現れると、大騒ぎになって、親が殺虫剤のスプレー缶を持って追いかけた。
ゴキブリホイホイはまだ発売されていない時代だった。
それでも、よほど食べものが足りなかったのだろうか――餌場となるダストシュートはすぐそばにあったのに――ある冬の朝のことだったか、お風呂場の前に敷いておいたバスマットを母親が持ち上げて、
「あらっ! ゴキブリが食べたんだわ!」
と、すっとんきょうな声をあげたことがあった。
厚手のバスマットが、一晩でなにものかに喰い荒らされてボロボロになっていた。
ネズミというわけではないらしかった。確かに小動物の走り回る音なんて、団地にいた時に聞いたことがない。
「こんなものまで食べるなんて!」と、母親は心底驚嘆していた。
両親とも、ゴキブリが多いのはダストシュートがあるからだ、とぼやいていた。1階の私の家は、ダストシュートの一番下の、ゴミが堆積する場所に最も近かったことになるから、一見便利そうな生ゴミ処理の弊害を、まともに食らっていたのだろう。
でも私の心に、ダストシュートにまつわることでそれよりも深く刻みついていたのは、その、一番下のゴミが溜まるところに、定期的に薬を撒きに来る、四角い形の消毒車の存在だった。どのくらいの頻度で来ていたかは覚えていないけれど、気がつくと、男の人が車のついた箱形のものを引っ張って、棟の端から一つ一つダストシュートを回っていて、回収用の鉄の扉を全開にすると、太いホースの先からブオオオ、という低音を響かせて白い薬剤を吹きつけているのだった。その男の人が去った後には、扉の周りに飛び散った白い液体が残った。
その消毒車がどうしてだかわからないけれど、自分は怖くてしかたがなかった。音を聞きつけて、あ! あれが来た! と気づくと、家にいる時なら去るまで中にひそんでいればいいだけだが、外にいた時なら決してある距離以上近づこうとはせず、こわごわと遠目に見つめていた。
とはいえ、それは、怖いもの見たさのところもあったのかもしれない。車が白い液体を撒いて回るのを、遠くから胸を高鳴らせながらじっと眺めていた。
いわば、異形のものに対する恐怖心だったのだろうか。実際、あのような白い液体を撒く車は、これまでの人生の中でもかつての荻窪団地でしか見たことがないし、とにかく、不気味でしかたがないものだった。
あの時撒いていた薬のおかげで、ダストシュートもなんとかゴキブリの発生ぐらいですんでいて、それ以上の害虫がどうしたこうしたという話は聞かずにすんだのかもしれない。自分はダストシュートの悪臭も、それほど気になったことはなかった。生ゴミを捨てる場所なのだから、生臭いのはあたりまえ、ぐらいにでも思っていたようだ。
ただし、焼却炉の燃えないゴミを捨てるところで、ウジ虫というものになら生まれて初めて出合ったことがあった。いっしょにいた子どもたちの誰も、それがなにかはわからなかった。いつものように焼却炉に遊びに行って、見たこともない肌色の虫たちがコンクリの上をはい回っているのに出くわし、なんだかわからないままにともかく退治しよう、ということになって、いったん家に戻って持ち出してきたものはあまりにも見当はずれだったけれど、でもそれは、誰もが、あの白い液体を撒きに来る消毒車のことを知っていたからかもしれない。
こういった、かつてはどこの団地にもあったというダストシュートは、そのような衛生上の点や生ゴミ以外のものが混入するようになったのが問題になり――荻窪団地もそうだったのかは知らないけれど、各家庭から出た生ゴミは、当初は養豚場に回してブタの餌にしていたこともあったそうだ。養豚業者の人が餌としてゴミの回収に来るのと引き換えに、清掃を引き受けていたような団地もあったという――後年はすたれていき、使われなくなったそうだ。ダストシュートの扉はゴミを投入できないように封鎖されて無用のものとなり、生ゴミは、別途、ポリバケツなどの別の方法で回収されるようになった。
ただ、私の住んでいた荻窪団地では、少なくとも私たちのいた間は、みんなあたりまえのようにダストシュートを使っていた。私たち一家が引っ越していったのは昭和47年の春の初め――以後、いつまで使われていたのかは私にはわからない。
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