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荻窪随想録15・西田端橋の下で――昭和45年のある日のできごと――

西田端橋――にしたばたばし――という、うっかりすると舌をかみそうな名の、善福寺川にかかっている橋。
その橋が荻窪団地に行くバスの決まって通る道だったし、団地に住む小学生や中学生が通学するために通る道でもあった。
今は左右に人が通るための歩道をつけ足して、ずいぶんと広くなっているが、以前はもっと狭く、もっと飾り気のない橋だった。
橋の下を流れる善福寺川も、今の善福寺川しか知らない人には想像もつかないほど汚かった。
常に薄汚れた感じで、浅い川の底ではいつも、得体の知れない大きな灰色の花のようなもの――藻の一種だったのだろうか――が、花びらをなびかすようにびらびらと揺らめいていた。

鯉が泳いでいるところを見たこともなければ、水鳥が浮かんでいるところを見たこともない。
私は橋を通る時に、たまにその藻なのだかなんだかわからない、橋の下の不気味なものに目をくれ、ほんとうに気持ち悪いな、と思っていた。
小学生の私にとって、一番近くにあった川とはそのようなものだった。
川べりの草むらには数珠玉が実りはし、荻も生えていたのかもしれないが、とても足をむき出しにして入って遊べるようなところではなかった。
それでも、子どもたちにとって川は今よりも身近なものだった。

小学5年の時のことだった。
同じく団地に住んでいた、
「はやし」の「なか」に「やす」い「え」があったさん
(それは、その子が自分の名前を文章として通るように説明した時の言い方だった)、と、
それと同じ言い方をすれは、「はじめ」から「さわ」があったさん、とのクラスメートどうし三人で、学校からいっしょに歩いて帰ってくる途中、
私は橋の上で、砂まみれになった、女の子が髪につけるようなリボンを見つけた。

それで、「あ、リボンだ」と言って拾い上げ、
「ほら、はやしのなかさんも、こういうリボン見たことあるでしょ?」と見せたところ、
はやしのなかさんが驚いたように、
「あっ、それ、あたしの。あれ……?」と言い、ちょっと考えてから「やっぱ、あたしのリボンだ」
と言ったので、なんでこんなところに、とこちらも驚いたけれど、
そう言えばはやしのなかさんは、だいぶ前に学校にリボンを持ってきてつけ、つけているうちにどこかに落としてなくしてしまったのだった。

とはいえ、あまりに薄汚れていたので、はやしのなかさんは私が手にしたものをじっと見た後で、
「それ、捨てていいよ」とぽろっと言った。
それで私は、「そう?」と、いったん拾い上げたリボンを橋の下に投げ捨てた。

投げ捨てられたリボンは、ぽちゃん、と音を立てて川に落ち、浅い底に沈んでいった。
沈んでしまっても見えるので、三人で橋の欄干にもたれながら、「どこに行った?」「あっ、あそこ」「どこ?」「ほらほら、あそこ」「あっ、ほんとだ、見える見える」などと言い合いながらしばらく眺めていたが、やがてまた帰り道を歩き始めた。

ところが、少し行ったところで、はやしのなかさんが、
「でも、あれ、大事なリボンだったからなあ……せっかくおばあちゃんにもらったんだし……」
などと言い出した。
そしてついには、「あたし、拾ってくる」と言って引き返そうとした。
私は、「いったんうちに帰って、ランドセルを置いてきてからにしたら?」と言ってみたのだけれど、
「ううん、今、取りに行く」と言って聞かないので、三人でまた橋まで戻ることになった。

そして、川べりからみんなで川に向かって斜面を下りていき、岸辺に落ちていた枯れ枝を拾って、浮かんでいるリボンをこちらに引き寄せようとした。
でも、なかなか引き寄せることができなかった。
そうこうしているうちに、同じ小学校の別のクラスの男の子たちが橋の上を通りかかり、おまえらそんなところでなにしているんだ、と聞いてきたので、
私がありのままに、「はやしのなかさんのリボンを拾おうとしているの」と大きな声で答えたら、
川に落ちたものを、とばかにしたように言われ、
そのせいなのか、はやしのなかさんは急に「もういい」と言って立ち上がった。

結局、リボンはそのままになってしまった。

後で考えるに、おそらく、男の子たちに嘲るように言われて、ふいに恥ずかしくなったのではないだろうか。
でも、そんな気持ちを察することができるほど、私はまだ大人ではなかった。

昭和45年、50年以上も前のある秋の日に、西田端橋の下であったできごとだ。

あの頃は汚いながらも、そうしようと思えば岸まで下りていって近づくことのできた川も、
今は石とコンクリとで周りをがっちりと固められ、近寄ることすらできない。
そもそも、枯れ枝などが都合よく川岸に落ちているわけがない、土ではないので。
川床も、流れで削られるのを防ぐためなのか、最近では一部にブロックが敷き詰められている。
それどころか、橋のたもとのすぐそばには、低木できれいな植え込みが作られ、小休憩ができるようにベンチまで置いてある。

あまりにも記憶にある西田端橋のあたりとは違う光景に驚くばかりだ。

とはいえ、私が知っていた西田端橋の下を流れる善福寺川の姿も、その時、その時代のものでしかない。
日本が経済発展に突き進んでいった結果、見る影もなく汚れてしまったものだったのだろう。
昭和40年代といえば、公害問題がピークを迎えた頃だし、
折しもその45年は、杉並区のある学校で生徒たちが集団で倒れたことによって、日本で初めて光化学スモッグの発生が認められた年だということだ。

それよりも前の時代だったら、そもそも田んぼの合い間を塗って流れていた素朴な川だったのだろうし、たとえ澄み切った、とまではいかなかったとしても、魚ぐらいは泳いでいた川だったのに違いない。
そしてもっと時代を遡ってみたり、逆さまにこれから先のことを想像してみたりすれば、むしろ、私の知っている汚れ切った善福寺川のほうが、きわめて短い間の、一瞬の姿だったということになる。

そうはいっても、私はいまだにきれいになった善福寺川に下り立つ鳥や、たゆたう鯉に目をみはらずにはいられないのだった。

※よいこも大人も、川にものを捨ててはいけません。
 当時のことをありのままに書きました。
※タイトル画像撮影年月日ーー令和6(2024)年1月6日

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