荻窪随想録24・飯場の友だち
元は田んぼで、その後しばらくは空き地であったところには、
昭和3~40年代の高度経済成長期には折々飯場が組まれることもあって、
それは子どもたちの目には、一種異様な光景として映るものだった。
屈強そうな、日焼けした肉体労働の男たちと、同じく汚れてもかまわないような身なりの女たち。
大人数の食事を作るためか、外で煮炊きをしているところを見かけることもあったという。
団地のように小ぎれいに区分けされた住宅や、一軒家にひとつの家族で収まって暮らしていることが通常だった子たちにとって、そのような暮らしぶりはかなり変わって見えて、恐ろしげでもあれば、興味津津に感じられるものでもあったことだろう。
それが原因か、そのような親たちについてわずかな期間だけ転校してきた子が、
クラスにとけ込めきれずに、からかわれたり、いじめられたりしたこともあったようだ。
ようだ、だの、だろう、だのと書くのは、私自身はそこまでの典型的な飯場に出合ったことはなく、
また、クラスにそのような子が転校してきても、たまたまいじめられるところを見かけたことはなかったからだ。
ただある時、転校してきた女の子の家に行ってみたら、そこは飯場だった。
その子の名は、「みはる」ちゃんといった。
みはるちゃんがうちに来るか、と言ったので、行ってみたら、安っぽいバラック建てだった。
普通の家とは造りが違うのは見ればわかるので、なんでこんな家に住んでいるんだろう、と思って、家に帰ってから母親に報告したら、
「あら、飯場の子なのね」といったような返事だった。
それで、飯場ってなに? などと聞き返して、工事をする人たちが、その時だけ住むために建てたうち、などと説明してもらったのだと思うが。
でもなぜそれを、「はんば」というのかは、やはりよくわからなかった。
私がみはるちゃんについて訪ねていった、ある学校帰りの午後には、家の人はみんな働きに出ていたのか、その子と、その子の妹以外は、そのバラックには誰もいなかった。
で、みはるちゃんが、
「ドーナツ作ってあげようか?」
と私に言ったので、
「え、ほんとう?」(そんなもの、作れるの?)
と喜んで、その子がガスこんろの前に立って、小麦粉に砂糖を混ぜたものをフライパンでじゅうじゅう焼くのを期待しながら横で見ていたら、
できてきたのは、真ん中に穴が空いただけの、ちょっといびつな、平たい円盤型のものだった。
ドーナツじゃない、と思ったけれど、自分自身、ドーナツを作るのにはベーキングパウダーが必要で、それでふくらむようにする、ということすらわかっていなかったし、
みはるちゃんがフライ返しでお皿によそってくれたので、3人でそれをおやつとして食べた。
あんまりおいしいとは思わなかったけれど、妹と自分――と、この日は友だち――のために、自分でお菓子を作ることができるのはすごい、と思った。
私などは危なっかしいから、と言われて、台所に立たせてもらうこともできなかった。
春先のことで、
近くの草むらに生えているつくしを、これは食べられるんだ、と言ってみはるちゃんがしゃがんで摘み始めたので、
私もいっしょになって摘んで家に持って帰り、母親にこれで料理を作ってくれ、と頼んだ。
たぶん、その日の献立はもう決まっていて、
「おひたしにでもすればいいの?」
と母親は当惑していたが、
夕飯の席に出てきたそれはなんだか黒ずんでいて、これもあまりおいしくはなかった。
でも、つくしが食べられるということを知ったのはおもしろかった。
みはるちゃんははきわめて短い間――ほんとうに短い間で1カ月いたかどうかぐらい――しかいなかった。
次にどこに行ったのかも、また、どこに行くのかと自分が聞いたのかも覚えていない。
ただ、ドーナツと称するドーナツではないものを作ってくれたことだけは、非常に印象に残った。
このように食べものがからんでいると、私はよく覚えていることができるのだった。
※タイトル画像
推定昭和35(1960)年の、空き地の横の畑。
かなり広くて、農作業をしている人の姿も見える。
向こうに立っているのは、荻窪団地南端東側の25号館と、26号館。
左端に、11号館と10号館がわずかに写っている。
奥にそびえているのが団地の給水塔。筆者所蔵写真。
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