荻窪随想録16・丸山橋まで――善福寺川を遡上――
善福寺川は、川べりにある道を、川上にも川下にもどこまでも歩いていける。
自分でそう書いておきながら、ほんとうにそうなのだろうか、と思った。
それは自分が子ども心に思っていたことであり、実際には今となってさえも、川上には荻窪駅に通じる通りに出られるあたりまでしか歩いていってみたことがない。
それで、一度善福寺川を遡っていってみようかと思った。
もちろん目指すのは、善福寺川の源であるという善福寺池のある、善福寺公園になる。
冬にしては暖かいある晴れた日の午後に、シャレール荻窪(元公団荻窪団地)の西側の、川に面して開けたところから始めることにした。
私が子どもの頃にはそんなものはなかったが、川べりの柵に里程票が取りつけてあって、ご親切にも、善福寺池のさらに源である「遅野井(おそのい)の滝」というところから、そこが4.9キロメートルの地点であることを教えてくれている。4.9キロなら、歩き通せるかな、と思った。
このあたりはほんとうに、見違えるほど変わった。以前は草ぼうぼうだったのに、道が舗装され、計画的に植えられた草や木に囲まれて、ベンチに座ってくつろげるようになっている。
なにより、ここに立つと川のせせらぎが聞こえてくる。流れをよくするためか、川床に人工的に段差をつけた結果、川の流れる音が聞こえるようになったのだ。私がいた頃には、せせらぎなど一度も耳にしたことがなかった。天気のいい日にはシャレール側である左岸には陽射しがふりそそぎ、とても心地よいので、初めてここに訪れた人になら、こんなところに住んでみたい、と思わせるのに十分だろう。
そして、川べりの道幅はかつての倍以上に広くなっっている。自転車が2台並んで通っていけるぐらいだ。
そのすぐ先にすでに見えている、川上の松渓橋を越えてからしばらくの間も、右手の都営住宅を建て替えた時に広げたのか、しばらく幅の広い歩道が続く。それで勘違いして、自転車でどこまでも川べりを行けるのかと思った人が、その二つ先の橋である春日橋と、そのもうひとつ先の忍川下橋(おしかわしもはし)との間の、桜の大木が倒れかかって道をふさぐほどに川に迫り出しているところに出くわし、春日橋のたもとまで自転車に乗ったまま、全部バックしていかざるを得ないところを、つい最近目撃したことがあった。
元々、ここいらは人家の軒先を通るのかと思うほど細い道が続くのだ。いくら部分的に道幅を拡張したといっても、自転車通行はあまり勧められない。
松渓橋と次の松見橋との間の左手では、老朽化してもずいぶんと長いこと立ち続けていた、電源開発の、3階建てと、4階建ての3棟の社宅が、ついに解体を始めている。敷地全体を白いシートで蔽った向こうで、蔽いの上から突き出たパワーショベルが、コンクリの粉末を煙のように立てながらガンガンと四角い建物に挑みかかっている。
ここにも、かつては小学校のクラスメートだった女の子が住んでいた。一時期はよくみんなでその子の家に集まって、バレーボールの練習をした――その子ともう一人の女の子との発案で、バレーボールチームを作っていたからだった――バレーボールまんがである『サインはV!』が週刊<少女フレンド>に連載していた頃で、テレビドラマでもやっていた時代だった。
そのあたりの川の左手は、私の住んでいた昭和3、40年代の頃とあまり雰囲気が変わっていない。もはやすっかり古びて黒ずんだ護岸のブロックや、川に向かって大きな口を開いた排水管がいくつか続いて並んでいるところは、相変わらず少し気味が悪い。水がきれいになったとはいえ、松見橋のあたりでは少し淀みを感じる。よく見ると岸辺に枯れ草や澱がたまっているようなところもある。そして、浅い川底には、大きな資材が沈んで水苔らしきものをまとわせ、そのままになっているようなところもある。
いつ作ったのかわからない石積みの岸辺が、部分的に少しくずれたようになったのが残っていて、陽の当たるところにはそこだけ緑の短い草が生えていた。だからと言ってもちろん、一般の人が下りていけるようにはなっていないし、さすがに危なそうで私も下りていく気にもなれないが。
それでもやはり、一時よりは水質が格段に上がったらしく、その証拠にあちこちには鴨が優雅に浮かんでいるし、鯉が泳いでいるのが見えることもある。歩いていくと、長い脚で川の中に立って、獲物を狙っている白いサギにも何羽も出会うし、セキレイも尾をふりながら始終飛び交っている。突然、なにかがぼちゃん、と水に落ちた音がして、それがカワセミだと気づくこともある。突っ込んだ音で初めて、いたのに気づくことがほぼ常なのだが。
しかも、川床で陽差しを浴びながら緑色に輝いている、あの流れになびく細長い草はなんなのだろうか。
それから、子どもの時には見かけなかったサイレンが、高いポールの上に取りつけられている。そのサイレンのあるあたりでは、水かさが増すと危険を知らせるために警報が鳴る、という注意書きが柵に掲示されている。そして、対岸のブロックには、危険水位を示す白線が、ペイントではっきりと引かれてもいる。
川べりの住宅地である以上、歴史的に水害に悩まされてきたのは事実で、特に昨年は、極度の大雨のためにそのあたりはかなりの高さまで水が上がってきたとのことだが、私が子どもの頃には見られなかった警戒ぶりだった。
私がかつて歩いていったことのあるのは、たぶん、忍川橋(おしかわはし)の次の、忍川上橋(おしかわかみはし)まで。なおもその先に行くと、右手に、どうやら新しく建て替えたような――そして、後で調べてみたら、事実そうだったのだが――桃二(桃井第二小学校)の校舎が現れ、その次の荻窪橋となると、もう来たことがなかった。
手すりを青く塗られた歩道橋の階段を上ってはまた下り、環八を横切ると、その先はもう未知の領域だった。すぐに次の橋になり、また次の橋になり、と、似たように人家の脇を歩いていく道が川べりに続く。そうやって歩いていってみると、川に向かって桜の木が危なっかしいほど迫り出しているのは、なにも春日橋と忍川下橋の間だけではないのがわかった。やがて、屋上に、風船を二つくわえた鳩のかわいい看板がある、チャイルド社の横に出た。ただその先は清掃車が何台も停まっていたし、ちょうど鉄道の高架下を川がくぐる形にもなっていて、少し寒々しいものがあった。さらにその先は、人家というよりも川の両側に中層のビルが迫っているところも多く、住宅地というよりもちょっとした街の裏側のような雰囲気があった。
そうやってなじみのない名前の橋を、時に左側の道に移ったり、また右側に戻ったりしながら、いくつも通り越えていったら、意外なことにお尻のあたりに筋肉痛を覚えてきた。決して健脚ではなくても、そこまでやわなつもりではなかったのに、これはいつも座って仕事をしているせいか、はたまた寄る年波というもののせいだろうか。
橋を10いくつも越え、試しに今どのあたりまで来たのか、とスマホを取り出してGoogle mapで現在地を調べてみたところ、善福寺池はまだまだ先だった。わかりきってはいたが、川は蛇行しているから、川に沿っていけば道に迷わなくてはすんでも、なかなかたどり着かないのはあたりまえだった。
その時、その先の右手に公園があるのに気づいたので、とりあえずそこまで歩いていって、少しだけそこで休むことにした。
そこは、「関根文化公園」といった。それですぐに、子どもの時に親に連れてきてもらっただけではなく、時にはきょうだいやその友だちとだけで来ていたこともある、「関根のプール」のあったところだと思い当たった。たぶん、そこまではバスを乗り継いで来ていたのだろう、どこにあったのかは探してみようと思ったこともなかったので、まったくわかっていなかった。
今日はどこのプールに行こうかと子どもたちで話し合っていた時に、
「でも、関根は温水じゃないからね」
という話になったことがあるのを覚えている。おそらく、温水プールに変わるのがほかよりも遅かったのに違いない。今は見渡したところ、プールは跡形もなく、いくつかの遊具があるだけの公園になっていた。親に連れられた小さな子どもたちがちらほらといた。
そこの空いていたベンチに腰かけ、たいていは持ち歩いている、お茶の入ったボトルに口をつけた。
この公園の横の川べりの柵にも里程票が取りつけられていて、見ると、目的地である遅野井の滝から2.4キロメートル、とあった。まだ半分しか来ていなかった。すでに、小一時間は経っているのに、あちこち、目をやりながら歩いてきたからだろうか。
日が陰ってきていたし、暖かい日とはいえ、やはりずっと戸外を歩いてきて若干体が冷えてきたのも感じたので、残念ながら、この日は川沿いの道を遡るのはそこまでにすることにした。同じように、スマホでGoogle mapを見てみたところ、ちょうどそこは西荻窪の駅の近くのようだった。そこで、公園を出て最初に出会った橋である丸山橋のところで横にくるりと向きを変え、電車に乗って帰るために善福寺川を後にした。
この関根文化公園が、新たな治水事業の一環としてつぶされるかもしれないということを知ったのはそれより後のことだった。
後に昭和の杉並の風景を集めた写真集『杉並区の昭和』を見て知ったところによると、公園ができたのは昭和25年で、さらにそこにプールが作られたのは29年だという。しかし、東日本大震災の影響で地盤沈下したことによってプールが使えなくなったので、プール自体は平成24年度になくなったということだ。
もちろん改修しながらではあろうが、60年以上もの年月、同じところでプールを運営していたというのはけっこうすごいし、この公園が形を変えながらでも75年近くも存続しているというのもなかなかのものだ。だいいち、名前がいい。「文化公園」とはなんのつもりだろうか。大正の終わりから、昭和の中頃までにかけてはやったという「文化住宅」にならったのだろうか。
歴史を感じさせる名前のついた昔からある公園。この公園は、子どもたちのためだけではなく、川べりを歩いてきた私のような者が、小休憩できる場所とするためにも、このまま残しておいてもらえないものか、と思った。
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