城章子の『見果てぬ夢』(に垣間見える大泉の影)
萩尾望都に、今回の告白本である『一度きりの大泉の話』を書くように勧めたのは、
マネージャーの城章子さんだと言うが、
この方もかつては知ってのとおりまんが家であり、
70年代には、主に<少女コミック>にいくつも作品を発表していた。
大泉に集う人々に負けじ劣らじ、
当時、あらゆる少女まんが雑誌を貪るように読んでいた私の友だちや私は、
次々と現れ出る新人作家の作品にも目を配っていて、
その中にはもちろんこの城章子さんも入っていた。
そして、
「竹宮惠子が自分の好きなまんが家に城章子をあげていた」
という意外な(と、思えた)話を聞いたかと思えば、
「城章子は竹宮惠子のアシスタントだったんだそうだ」
という話を聞いて腑に落ちたりして、
でもそのうち、「今は萩尾望都のマネージャーをやっている」(えー!?)
となって、折々話題に上る人ではあった。
ただ、失礼ながらその画力は――これはご本人も否定しないとは思うが――いささか低かった。
いかんせんまんがは絵が命。
ストーリーとしてどれだけおもしろいものを作っても、
画力が低ければ、伝え切れない結果になりかねない。
しかしそのような彼女の作品の中でも、
私には一つ好きなものがあり、
それは、『見果てぬ夢』という、舞台女優が主人公の51ページの読み切り作品だ。
ニューヨークを舞台にしたもので、
ドラマチックでありながらも、主人公の心理や内面の葛藤がつぶさに描かれている。
あまりによくできているので、
一時はなにかの翻案ではないかと疑ったこともあるのだが
(というのも、この時代のちょっと前までは、
まんがはなにかを原案にしていながらそのことを明記していなかったり、
小ネタをパクったりしていることがままあったので)、
今回、『一度きりの大泉の話』を読んだところ、
いくつか符号するエピソードが出てきて、
もしかして城章子さんは、この作品を作る際、
案外身近なことを参考にしたのではないか、と思えてきた。
どういうところがかというと、
主人公のマリー・ブルーが、
同じ劇団に入ってきた新人のセアラ・アンに、
ほかの人とは違う見どころがあるだけではなく、
一度見た脚本はそっくりそのまま覚えてしまう、という特殊な能力があることに気づいて、
「な…なんだろう この人」
と、ぞっとするところとか、
仲よくしていたはずなのに主役の座を奪い合うことになり、
一人で練習することに決めた時、
「セアラ・アンにツメの先ほども見られたくない からだごと吸いこまれてしまう」
と、怖れていたところとか。
どちらも、『一度きりの大泉の話』の巻末で、城章子さんが書いていたことと合致しないだろうか。
前者は、
萩尾望都に対して竹宮惠子が、見たものをぱっと覚えてすぐにまんがの絵に落とし込める彼女の天分を恐れていた、と書いているところとであり、
後者は、
それが、竹宮惠子が萩尾望都に距離を置きたいと言った理由だろう、と城章子さんが推測していたことと。
ちなみにこの二人のキャラクター設定は、
マリー・ブルーを見出した敏腕ディレクター、ギルバートの作中の言葉として、
主人公マリー・ブルーは「典型的な秀才タイプ」で、
対するライバルのセアラ・アンは「天才」ということになっている。
ここもなんだか、竹宮惠子と萩尾望都の世間一般の評価をにおわせるものがある。
さらにこの作品は、
盗作したのしないのといった問題が生じる原因も、
物語の中のエピソードとして――もちろん、あくまでもこの物語の中のこととして――示してくれる。
マリー・ブルーはある時、オーディションに遅刻して、
セアラ・アンに先を越されてしまうが、
ちょうど目の前で繰り広げられていた彼女の演技を見て驚く。
身のこなしが自分とそっくりだったからだ。
しかも、マリー・ブルーの見たところ、
完全に超越してセアラ・アンのものになりきっていて、
その後 もし自分が演じたら 単に彼女に似た感じなだけの、
未完成のものとして審査員たちに受け止められてしまいかねなかった。
マリー・ブルーはショックで気を失うが、
その後マリー・ブルーに近いほかの劇団員が、
セアラ・アンにマリー・ブルーの持ち味を盗ったのではないか、と詰め寄って言い争いになっている声で目覚めると、
セアラ・アンは
自分はこれを自分で考えて演じたのだ、はっきりした証拠もなく盗ったと言うだなんてひどい中傷じゃないか、
と、すごい剣幕で言い返していた。
それを聞いて、マリー・ブルーは、
セアラ・アンが意識しないで他人から吸収できることを知り、
しかも、まだ途中段階にいる相手がやがて行きつくだろう最高地点を本能的に見抜いて、
それを即座に身につけられることに気づく。
「だから だから自分が吸収したことに気づかないのかしら?
(中略)
たしかパブロ・ピカソがそうだった…って
天才!?」
確かに、自分の見たもの聞いたものをどんどん吸収していく人であれば、
いつ、どこで、誰の、なにを吸収したかはいちいち覚えていないかもしれない。
また、たとえ天才でなくても、
表現者であるのなら、いいと思ったものをどんどん取り入れていくのは本来あたりまえのことなのだ。
マリー・ブルーはセアラ・アンの才気に怖れをなすがもう遅過ぎる。
自分が生涯に一度でもいいから演じたいと思っていたミュージカルの主役はセアラ・アンに奪われてしまうし、
そもそも、自分の才能を見出したはずのギルバートの口からも、
セアラ・アンは天才だから、その才能を活かすためには自分はあらゆる協力を惜しまないつもりだ、と告げられる。
同じように主役を誰にするかでもめ、
「(たとえ、私情を交えるなと言われても、)わたしにとってモルジアナはやはり……ノンナ・ペトロワ彼女一人なのです!」
と言い放ったユーリとは違うのだ、この男は(注・『アラベスク』)!
マリー・ブルーは酒に溺れ、自傷行為に走り、やがて演劇界を去って映画の世界に道を見出そうとする。
ただ一番最後にはギルバートと和解し、
一度はあきらめたはずの舞台にまた戻ってきて、
もう一度舞台女優としてできるところまでやろう、と頑張ることになるんだが。
私はこの作品に描かれた主人公の情熱と不屈の根性が好きだった。
細かなせりふの一つ一つにも、
表現者でなければわからない苦悩や、感慨が現れていて読みごたえがあった。
そして、マリー・ブルーのプライドの高さ。
それもまた、この作品の見どころの一つとなっている。
ギルバートの役どころは今ひとつ腑に落ちなかったが
(私はいらん、こんな男)、
それは少女まんが的なオチとして、このような結末が必要だったのかもしれない、と考えるしかないかもしれない。
また、きわめて簡潔にではあったが、
天才としてのセアラ・アンの描写にも興味を覚えるものがあった。
セアラ・アンは毎日脇目もせずにレッスンに励んでいたが、それは「努力」しているのでも、自分に「禁欲」を強いているのでもなく、
ただ自分の芸ごとにしか興味がないから、そうであるだけなのだ、と。
23にもなってまともな恋ひとつしたことがなく、演技をすることだけに身を捧げて生きてきたわけだが、
その演技はマリー・ブルーからすると完璧すぎて、どこかガラスの中の別世界を見ているように冷たかった。
すなわち、生身の存在とはとても思えなかった。
しかし、そのような天才でも、ひとたび盗作したと言われれば、人並み以上に激怒する。
ただそういった感情的なシーンは、セアラ・アンよりもマリー・ブルーが演じるほうがこの作品の中でははるかに多かったが、
城章子さんのこのようなキャラクター造形は、
どちらかと言えば、やはり萩尾望都よりも竹宮惠子のセンスに近かったと思う。
そして人の心理を理解することについては、
『一度きりの大泉の話』を読んだ後となっては、実は萩尾望都よりも城章子さんのほうが長けていたのかもしれない、という気がする。
この作品が萩尾望都と竹宮惠子の関係をモデルにして作られた、とまでは私は言わない。
でも、実際に城章子さんが見聞きしてきたことが、どこかでこの作品の生まれるきっかけとなり、またこの作品を「血の通った」ものにしたような気がする。
『一度きりの大泉の話』には心底がっかりしたけれども、
そのおかげで私も、いつか一度は語りたいと思っていたこの作品に触れる機会ができて、よかったのかもしれない(と、思うことにしよう)。
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『見果てぬ夢』城章子・著 別冊少女コミック1月号増刊(1978)
注・『アラベスク』(第1部)山岸凉子・著(1971~1973)
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