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荻窪随想録32・団地の焼却炉での遊び方――ちょっと女子流か――

10号館の西の端には焼却炉があって、住人は各々そこにゴミを捨てに行って自分で燃やすことになっていた。

すなわちそこはゴミ捨て場であり、焼却炉とは別に、缶や瓶や、焼却炉では燃やすことのできないような大きなものを捨てるコンクリートで造られたところもあったのだけれど、誰も「ゴミ捨て場」とは呼ばず、そこ全体のことを「焼却炉」と呼んでいた。そして、そこも子どもたちの日常的な遊び場であったことは、言うまでもない。

そこは、全体をブロック塀で囲んだ周りに、美観のためにアオキを植えていたんだったか、常緑樹が取り巻いていて、その中の手前のほうに、はっきりとした形は覚えていないのだけれど、どうやらそれが、燃えないゴミ置き場であったらしい、確か傾斜のついたようなコンクリート製のところがあって、奥のほうにコンクリートで覆われていた気のする焼却炉があり、そのどちらともによじ登って遊ぶのだった。

子どもは、高くなっているところを見ると登りたがるもの。そして、自分たちはある頃、焼却炉のてっぺんで学校ごっこをするのが好きだった。

学校から帰ってきて、また学校ごっこをする、というのはなんなんだかよくわからないけれど、じゃんけんをして先生役と生徒役とに分かれて、自分たちで授業のまねごとをするのが楽しかったらしい。そこに捨ててあった木箱を逆さにして学習机にしたり、同じく捨ててあった板きれを黒板にしたりして、板きれには持ってきたろうせき――その頃には、どこの文房具屋でも売っていた――で字を書いて、いろんな科目の勉強ごっこをした。
算数だったら先生役の子が暗算をさせ、国語だったら漢字を書かせ、としたけれど、ノートはアオキの葉っぱをつんで、そこに、拾った釘や木の棒で引っかいて文字を書いた。そうしよう、と言ったのは、たぶん私だったのだろうと思う。童話の世界が大好きだったから、森――いちおう、常緑樹に囲まれたところなので――の中の学校とかいうことにしたかったのではないだろうか。

図工の時間(ということにした時間)には誰かが持ってきた折り紙を折ったり、給食の時間(同)にはやはり誰かが持ってきたお菓子をその折り紙をちぎって何枚かにして、その上に置いて配ったりした。
休み時間ということになると、生徒役の子たちは焼却炉の周りを走り回ったり、アオキの植え込みの中をくぐったりしてはしゃいだ。

そうして、そのうちの誰かが親に早く帰ってくるように言われているのか、時間を気にして帰っていっても、ほかの子たちはまだ焼却炉に残って、日が暮れるまでなんやかややって遊んでいるのだった。

ゴミ捨て自体は、お手伝いとして子どもたちがすることもよくあり、私も、もちろん私の兄も姉も、ごみをまとめた紙袋を持って、焼却炉を行き帰りした。

しかしそんな日常の中で、あろうことか一度、発情したらしい野良犬に、帰り道で後ろから襲われ――なにか、ひたひた、と背後からついてくる足音がする、と思ってふり向いたとたんに犬に飛びかかられたのだった――脚にしがみつかれて自分ではふり払うことができず(ずるずると犬を引きずりながらも必至に前に進もうとしたのだけれど)、通りかかったおばさんに助けを求めて追い払ってもらった、という事態に見舞われたこともあった。

比較的安全なはずの団地内といえど、ヘンな危険が待ち受けているものだ。

焼却炉の扉は鋳鉄製で、重たい横開きの扉を開けると、中ではごうごうと炎が燃えていた。火が消えている時には、紙切れにマッチで火をつけて、それを放り込んで自分で点火することもあった。横には鉄の火かき棒もついていたので、それで黒い燃え殻となった紙屑をくずして、新たにごみを放れる場所を作るのだった。もちろん、火が消えたままになっているところに、ただ紙屑を放り込んで、火をつけるのは後から来る人に任せて帰ることもあった。

ある時、兄といっしょにゴミを捨てに行って、焼却炉にゴミを放り込んでいたら、紙屑籠を抱えたお婆さんがやってきて、焼却炉の中に籠を持ち上げて中身を空けるのはちょっと大変そうに見えたので、兄が「やりましょうか」と声をかけ、籠の中から紙屑をつかんではぽいぽいと放ったことがあった。お婆さんがありがたがりながらも、「気持ち悪いでしょう、そんな(人の洟紙を)」というようなことを言っても、兄は「いいえ、大丈夫ですよ」と答えてこともなげに続けていた。

家では見ることのできない、兄の他人に向けたやさしさだった。そんな、家族の知らない一面をも見せてくれた、棟のすぐ横についていた、誰もが使っていた焼却炉だった。

当時のように、自分たちが出したゴミは自分たちで燃やしてその場で始末できる、というのは今から考えるととても気持ちのいいことだったけれど――今のように、半透明のビニール袋の中に自分の出したゴミがごちゃ混ぜになっているのが丸見えで、かつそういった袋がゴミ捨て場に山と積み上がっているのを目の当たりにするよりも。そして、それがカラスに突かれて、生ゴミが路上に散乱しているのを見かけるのがよくあることとなっているのも――やはり、時代が進むにつれて、ゴミを燃やすことによって生じる煙の有害性などが問題になったらしく、やがてはどこの団地でもそのような焼却炉は使われなくなったようだ。

考えてみれば、昔は小学校でも、いらなくなったテスト用紙だのわら半紙だの、あるいは各クラスから出た紙屑を、裏庭などにあった焼却炉であたりまえのように燃やしていた。
それも今では、すっかり見られることのできなくなった光景だという。

こればかりは、私たちの生活が変わっていく中で、ほんとうに引き返すことのできなくなった、また、環境のためにも引き返すわけにはいかない、昔の便利でよき部分だったと思える。

※タイトル画像は、24号館の脇(東側)の、焼却炉があった痕跡を示す煙突。
荻窪団地の解体が始まってから撮影したもので、撮影年月は平成20(2008)年5月。

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