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荻窪随想録34・荻窪団地の電話事情

荻窪団地は、公団住宅として初めて固定電話が引かれたところ、と言われている。
それに関しては、私にも思い出せることがある。

団地ではかつて、それぞれの家に内線の電話番号があり、同じ団地内のほかの家にかける時には、交換手に電話をして、「内線○○番をお願いします」と言って、取り継いでもらっていた。
そして、団地以外の家にかける時には、やはりに交換手に、「外線○○の○○○番をお願いします」と言って、つないでもらっていたのだった。

これがいわゆる、現在、公団住宅の研究本やサイトで、"公団初の固定電話"として紹介されている、荻窪団地の「集団住宅電話」だったのだけれど、それはおそらく、そういった内線制度を利用して、団地内の住民が手っとり早く電話を使えるようにしたのが初めて、ということであって(これより約半年早く、関東の別の団地で、希望者全員に電話を敷設した、という記録があるので)、しかも荻窪団地が建った当初から電話が引かれていたわけではなく、調べてみたところ、始まったのは昭和35(1960)年の4月だった。

それに、"それぞれの家に"とは書いてみたけれど、なにも各戸にもれなく電話機が備えつけられたのではなく、あくまでも電話を利用したい人たちによって結成された利用者組合に入った人の家だけで、運営費はその組合費でまかなわれていた。

これは、電電公社が、内線制度を利用して、少ない電話回線でも多くの人が電話を使えるように、と、試験的に導入した新制度だった。もちろん、そのためには団地の敷地内に交換台を設けることを必要とした。

なんでも当初は、団地に流入してきた新住民による電話回線の申し込みが殺到し、荻窪の電話局では対応しきれなかったので――80件の希望に対して、ということであったので、かなり時代を感じさせられる話だ――この新制度ができるまでは、電話局と話し合って、団地専用の赤電話を代替策として団地内に設置していたということだ。
北側の独身棟がその場所だったそうだ。独身棟の管理事務所に何台か赤電話を置いて、電話をかけたい人はそこでかけ、そこにかかってきた電話はアルバイトが伝言として受け取り、各戸に伝えに走っていた、という。

"走って"というのは私の想像だけれど、実際に、同じく近くの別の公団であった阿佐ヶ谷住宅のほうで、高校生の時にこのアルバイトをしていたことがあったという人の話を読むと、3階や4階の家に行く時には階段を駆け上がらなければならないからつらかった、という記述がある。
なんで体力に不足のないはずの男子高校生にその程度のことがきつかったのかはいささか解せないが、どうやら、電報みたいなものだったと思われる。

この制度は「取次電話」と呼ばれていて、「集団住宅電話」ができてからもしばらくは併用されていたようだ。これもやはり、利用できるのは組合に参加した人だけで、経費は組合の費用でまかなわれていた。

なので、荻窪団地で組合に入って電話を引いた人の電話番号は、
みんないっしょの398-5121。
そして、その後に、それぞれ、二桁か三桁の内線番号がついた。
当時はみんな、交換手を通して電話をかけたり、電話をもらったりしていたのだった。
でもどういうわけだか、個人として電話の架設に応じてもらえた家は、団地の中に住んでいても、同じ398の局番の後に、それぞれ個別の四桁の電話番号を持っていた。
そしてもちろん、電話の必要性をそれほど感じていない家は、電話など引いていなかった。

交換台は、赤電話とは反対に、団地の敷地の南西側に設置された。
いつも窓にブラインドを下ろしたような、平屋の建物がそれで、中はまったく見えなかったけれど、その横を通ると常に、カタカタカタカタ、となにかの音がしていた気がする。あれは、交換機の稼働する音だったのだろうか。そして、その中で交換手の女性たちが働いていたと思われる。

天神橋交番に出る通路の右側にあったので、それができたばかりの頃にはまだ善福寺川から引いた用水路もそのあたりを流れていたはずだが、そちらの光景のほうはなぜか記憶として残っていない。

私が内線を使って話したことでよく覚えているのは、同じ10号館の、同じ1階で、別の部屋に住んでいたおばさんに、たびたびお礼を言ったことだ。

というのも、そのおばさん――と言っても、まだ十分に若かったけれど――は、私がまだほんとに小さかった頃、たまたま10号館の玄関側の敷地で夕方頃に一人で遊んでいるところに出くわすと、
「おばさん、これからお買い物に行くんだけど、れいこちゃんもいっしょに来ない?」
と誘ってくるので、
「うん!」
と答えて、ついていくことがよくあったからだった。

ゆるやかに湾曲した道を、買い物かごを提げたおばさんと手をつないで、たあいないことをしゃべりながら北に向かって歩いていった。
その頃はまだ、南側のバス通りに富士スーパーはできていなかった。
行くのはたいてい、団地の西側の別の通りにあった、西田商店街の入り口あたりの、ミマツという酒屋兼食料品屋さんだった。
そこでおばさんが、調味料や乾物などひととおりの買い物をすませると、決まって、
「れいこちゃんにもなにか買ってあげようか? なにがいい?」
と聞いてくれるので、
そうすると私も決まって、
その頃、よく子どものおやつ代わりにもなっていた、小さな箱に入った干しぶどうである、カリフォルニア・レーズンを希望するのだった。
輸入元がどこかは覚えていない。でも、箱には三つ編みをした、ほがらかそうなアメリカの女の子が描かれていた。

そうやって必ず最後にはお菓子を買ってくれるのがわかっていたから、私はおばさんに誘われるままに買い物についていっていたのだった。

そうしてうちに帰ってくると、母親に、おばさんの買い物についていってレーズンを買ってもらった、と報告する。
そうすると母親が、じゃあ、お礼の電話をかけなくちゃ、と言って、我が家では冷蔵庫の上に載せていた黒い電話機に手を伸ばす。
そして、「内線○○番です。内線××番をお願いします」と交換手さんに言って、つないでもらうのだった。
相手が出ると、
まずひとしきり母親が挨拶とお礼を述べて、その後で、
「ほら、れいこちゃんもお礼を言いなさい」
となるので、
私は受話器を渡してもらって、レーズンを買ってもらった時にもちゃんとお礼は言っているのだけれど、改めてまたお礼を言うのだった。
まだ小さい時だったから、冷蔵庫の上の電話機を使う時には、椅子を台にしてその上に乗り、親に差し出された受話器をしっかりと握りしめながらだった。

私にとってはその人は、そのようにいつでもお菓子を買ってくれるいいおぱさんだったけれど、
後になって親たちから聞かされた話では、その人は子どもがほしいのになかなかできなかったので、
時々、私を誘って買い物に行っていた、ということだった。
娘のいる気分を、少しでも味わいたかったのだろうか。
私のような、特にかわいいわけでもなんでもなかった女の子が、そんなささいなことでほんとうに誰かの役に立てていたのなら幸いだが、
あのおばさんにその後、望んでいた子どもができたのならなおよかったと思う。
おばさんはいつの間にか見かけなくなったし、カリフォルニア・レーズンの小箱も市場から姿を消した。

さて、交換台を要する「集団住宅電話」が、夜の何時までやっていたのか――24時間稼働だったのか――ということは、残念ながら思い出せない。ただ、夜間もやっていたのは確かなようだ。

というのも、兄に聞いて知った話なのだが、20時以降は料金が安くなったので、
母が田舎の長岡に電話をする時には、夜の8時を過ぎてからかけるようにしていた、ということだったからだ。

交換手に電話を取り次いでもらう「集団住宅電話」は、カリフォルニア・レーズンの小箱の思い出とともに今も私の記憶に残っているけれど、それほど長い命ではなかったと思う。
おそらく、電話局のほうで、電話をつけたいと希望してくる人全員に、大して待たせずに電話を引くことができるようになった頃、電話局と組合との話し合いの上で、なくなっていったものと思われる。

でも、私が幼稚園を卒園する頃――それは、昭和41(1966)年春――までは確かにあったから、少なくとも6、7年は十分に活躍したのだろう。

おばさんと買い物に行くことがいつの間にかなくなったように、交換手を必要とする「集団住宅電話」もいつの間にか、ダイレクトに電話をかける普通の電話に切り替わっていた。


※今回の過去の事実関係については、記憶のほかに主に以下の図書を参考にさせてもらいました。

『日本住宅公団10年史』日本住宅公団(1965)
『いえなみ』1959年7月号、同11月号、同12月号、日本住宅公団総務部
『阿佐ヶ谷住宅物語』櫛山秀信:著、アサガヤデンショ(2016年第3版)

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