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荻窪随想録27・東光ストアと、北口のマーケット

荻窪の駅前に西友ストアができるよりも早く、北口にはかつて別の大きめなスーパーがあって、それは東光ストアといった。
正確に名前を覚えていたわけではなく、後に誰かからもうひとつあったスーパーは東急ストアだった、と聞かされた時、
東急だったっけ? 違うと思ったけど、といぶかしみながらも特に深く気にも留めないでいたら、
ずいぶん最近になって昭和の写真集(※)で、東光ストアから東急ストアに、昭和50年に店名を変更したことを知った。
その後、一時は、手芸用品などを扱うキンカ堂になっていたし、それよりさらに後にはやはりスーパーである、オリンピックに変わっていたようなのだけれど、今はそのような生活用品を売る店ではなくて、ビル自体が建て変わって新しくなり、パチンコ屋さんやカラオケの入った建物になっている。

その東光ストアには小さな頃、母親に手を引かれてよくいっしょに買い物に行った。
母親が買い物に連れていかねばならなかったということは、おそらく、まだ幼稚園に入る前ぐらいのことで、一人で家に置いておくわけにはいかなかったからだろう。
ただ、南側にある荻窪団地から駅の向こうまで、幼児の足の速さに合わせて歩いていったらかなり時間がかかるはずなので、駅まではバスに乗って行っていたのかもしれない。

そこへ行くまでにはちょうど踏切があったはずで――あるいは、昭和38年まであった路面電車の線路の記憶かもしれないが――私はそのレールを横切るのが怖かった。
レールの隙間に足を取られそうだったからで、実際に靴だけはさまってもげてしまったことがあり、自分にとっては一大事だったけれど、親は、あらまあ、という感じで靴を引っこ抜いてまたはかせてくれた――と思う、脚色された思い出でなければ。

そうやって親に連れられて買い物に行くとなると、私が決まってあれ買って、これ買って、とおねだりをするので、出かける前に「おねだりは一つだけ」という決めごとをして行っていて、いつも東光ストアで私がねだるものは、春日井の粉末メロンソーダだった(商品名は、春日井のシトロンソーダ)。コップに粉を入れて水を注ぐと、しゅわーっと音がして、デパートの食堂にあるような緑色のメロンソーダができ上がるからだったが、そこにアイスクリームを載せてクリームソーダにするところまでは思いつかなかったし、メーカー側も、そんな飲み方を提案するほど、当時はまだ豊かな時代ではなかった。

今でこそエコバッグなどといって、買い物に行く時に自前のバッグを持っていくことが奨励されているけれど、当時は奨励どころか持参するのがあたりまえで――そもそも、スーパーのレジに用意されているビニール袋など存在しなかった――その頃は巻尺のようにコンパクトにまとめられる、緑色の網製の携帯用バッグがはやっていて――なにかの景品だったのかもしれない――母はいつもそれを持って買い物に行き、買い物かごに入らないものはその網袋に詰め込んで、提げて帰ってきていた。

私の家は、きょうだい3人で父母を含めて5人家族だったから、毎日の食材の買い出しは、母にとっては一苦労だったことだろう――というようなことは、今になってようやく言えることだが。

ほかには、戦後のヤミ市の名残と言われた、安普請の店舗がひしめき合って立ち並んでいた北口の新興マーケットにも、よく買い物に連れていかれた。ここのことなら、同様に昔語りをする人たちで、私よりも詳しく、熱をこめて語れる人がいっぱいいるはずだが、私としては、なんだか薄暗い中に裸電球のようなものが下がった怪しげな通りだった、という記憶があるばかりだ。

おそらく私は、小学校の高学年にもなると、友だちと電車に乗って、吉祥寺の名店会館や、新しくできたロンロンに行くことを覚えて、自分ではマーケットの中をぶらつくことはなかったので、親に連れていってもらっていたごく小さな頃の印象しか頭に残っていないのだろう。
そんなわけで、私がかつて一心に見入っていたのは、コバルトで鯛焼きが焼き上がるところではなく、名店会館の1階のガラスの向こうで、輪っかの形に絞り出されたドーナツが揚がるところだった。

話を荻窪の元ヤミ市に戻すと、ここに行った時にも、もちろん親にお菓子を買ってもらうのが常だった。ただここでは、「これにしましょうか?」などと、親主導だった気がする。幼い頃にうちにあった袋菓子と言えば割と種類が決まっていて、橙色の魚の形をした、けっこう甘いコーティングで指がべたべたする姫鯛あられと、三つ輪形の塩味のクラッカーと、温泉マークのようなものが焼きつけられていた、コインくらいの大きさの、やはり甘めの薄いおせんべいで、一時はその三つが順繰りに回っていたような気がする。

現在、この跡地に建てられて、タウンセブンと名づけられた商業ビルの地下から2階までに入っている主な店舗が、昔から荻窪に住んでいる人なら知ってのとおり、かつてそのマーケットにあった数々のお店なわけで、それからもう何十年も経っているというのに、今でも威勢よく呼び込みをする八百屋さんや魚屋さんがあるのは好ましいことだが、一部はすでにフランチャイズやチェーン店の、どこにでもあるお店に変わってしまっている。
でも、地下のエスカレーターの脇にあるお菓子の成田屋などは、取り扱っている袋菓子の種類やその並べ方など、実に私が子どもだった昭和3、40年代の頃を彷彿とさせるものがある。私は時々、この成田屋でお菓子を買っている(ただしここは、姫鯛あられは仕入れていないようだ)。

ひとつ、かつてのマーケットで経験したことで自分がはっきり覚えているのは、小学4年生の冬にクラスメートたちと西友ストアに行くので通りかかった時、ハツカネズミを売っているのを見たことだ。
赤い敷布を広げた台の上に、ネズミたちが放たれていた。小学生の手のひらに何匹も乗せられるくらい小さくて、赤い目をして小さな手足の、まっ白なハツカネズミが、台の上をちょこまかちょこまかとたくさん走り回っていて、ふしぎなことに、台の脚を伝って下のほうまで下りていってみることはあっても、またすぐに自分で上ってきて、決してその台の上から逃げてはいかないのだった。
かわいくてしかたがなくて、ほしくてたまらなかったけれど、おこづかいをはたいて買って帰ったとしても親が飼っていい、とは言わないことはわかっていたので、友だちともども、かわいい、かわいい、と口々に言い合いながらも、買うのはあきらめて帰ってきた。

あのネズミたちはどうして逃げていくことがなかったのだろうか。今、考えてみるとふしぎでならない。

そのように、いろんな店の密集していた北口のマーケットには、縁日のようなにぎわいがあった。一時は、中央線のアメ横とすら言われて、なんでもそろうということで、荻窪以外からも人々が集まってきていたらしい。

ただしここも現在では、ビルを建ててからまた長い年月が経ったということで、どうやら建て替えの話がなくもないようだ。ただそれは荻窪駅前の再々開発にからんでくる話なので、なにがどうなっているのかは、私などにはどうもはっきりしない。

かつて、戦後の混乱していた世相の中で、いちはやく商売を立ち上げて、たくましく発展していった新興マーケットが、時代の要請でビルに建て替えられねばならなくなった時、商店会側は少しでもそのにぎやかな雰囲気を残せるように、と知恵をしぼったらしい。ただ、今度新しくなる時に、そのにおいをどこまで残せるだろうか。さすがに難しいのではないか、と思うのだが。

私自身は、なんでもかんでもきらびやかにしてしまうのは好きではないので、もしいつか建て替えねばならない日が来たとしても、昔ながらの、庶民的で、ほっとできる味わいを、少しでも残しておいてもらえないかと願っている。
そしてタウンセブン一つに限らず、たとえ再々開発は避けられなかったとしても、それをきっかけにかろうじて今も南北の駅周辺に残っている老舗が、追い立てられるようになくなることがないように祈っている。

※昭和の写真集、と私が書く時には、たいていは、いき出版の『写真アルバム 杉並区の昭和』(2019)です。
もう一冊、『目で見る杉並区の100年』(郷土出版社・2012)という、似たような値段の、似たような写真集もある。
かつて荻窪にあった大きな踏切の写真は、その後者のほうに掲載されている。

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