荻窪随想録35・荻窪団地の若者たち
若者たち、とタイトルにつけたところで、私が荻窪団地に住んでいた頃はまだ子どもだったから、
若者の実態や、その内面などなにも知りはしない。
ただ、子どもなりに若い人たちと交わった――あるいは、見かけた――思い出ならいくらかある。
時は昭和40年代、グループサウンズが登場し、ゴーゴー喫茶がはやっていた。
私たちもテレビを見て、当時の世相は知っていたから
――というよりも、私はザ・タイガースのジュリーが好きだった――
砂場で友だちと、「ゴーゴーやろっか?」と言って、
狂ったように踊りまくって、きゃっきゃっとはしゃいだこともある。
手足をめちゃくちゃにふり回していればいいのだから、簡単だった。
ザ・タイガースの『シーサイド・バウンド』がはやっていた頃のことだから、小学校2年生の時だろうか。
愛読していた週刊<少女フレンド>でも、グラピアや読みものでグループサウンズのことをよく取り上げていたし、
コンサートに行くと、女の子がキャーキャー騒いだあげくに失神したり、失禁したり(と、書いてあった)することも、そういった記事を読んで知っていた。
私自身は、グループサウンズはテレビで演奏しているところを見聞きしているだけで十分で
その年で特にコンサートに行ってみたいとも、ゴーゴー喫茶なるものをのぞいてみたい、とも思ったことはなかったけれど、
ある時、相変わらず暗くなるまで、仲よしのはじめっこや、やすえと外で遊んでいたら、
サイケ調のはでなブラウスに、黒いパンタロンをはき、ベージュのショートコートをはおった若い女の人が現れ――目いっぱいめかし込んだという感じ――タクシーをさっそうと呼び止めて、出かけていくのを目にしたことがあった。
3人とも、口に出して「カーッコイイー!」と言って見送った。
団地にも、あんな流行の服に身を包んだ人がいるんだ、とその頃の私は思った。
そうやって、その女性は新宿あたりにでも遊びに行ったのだろうか。
またそれよりもかなり後のことだったと思うけれど、
ある時、団地の脇を流れている善福寺川の川べりの草むらに、
アベック――その時代は、男女のカップルのことをそう呼んだ――が座っているのを見かけて、
私がなぜかどぎまぎして気がついていないふりをしようと、
「あ、セミがいる!」と近くの木の上を指差しながら大声で言ったら、
男女が驚いてこちらをふり向き、いっしょにいた友だち――あれは、やすえだっただろうか――に、
「セミがいるわけないでしょ!」と小声でたしなめられながら、腕を引っ張っていかれたことがあった。
確かに、セミなどがいる季節ではなかった。
後でその時にいっしょにいたその友だちに聞いたことには、ちょうど男のほうが女を引っぱたいたところだった、ということで、
私はそれとは知らずに、単にアベックに気づかないふりをしようとしただけだったのだが、
むしろ、かなり気まずい思いをさせてしまったのに違いない。
いや、気まずいもなにも、若い二人はもめ事の真っ最中で、それどころではなかったかもしれない。
そのように団地には、あたりまえだが、子どもたちだけではなく若者たちの姿もあった。
そして時には、若者たちと子どもたちとのささやかな触れ合いもあった。
そんな中、これは決して触れ合う、といったたぐいのことではないけれど、次のようなこともあった。
まだかなり低学年の頃のことだったと思うが、
21号館から23号館の横にまたがる公園で、そこにいた子たちと遊んでいたら、
女の子の一人が、あそこのベンチにいる男の人がおかしい、と言い、
えー? とふり向いてよく見てみたら、ベンチに座った若い男の人が、遊んでいる子どもたちを眺めながら股の間の自分の一物を取り出して握りしめていた。
なんでそんなことをしているのかさっぱりわからなくて、
ほかの女の子とともにくすくす笑っていたら、
「あったかいからさわってごらん」
と声をかけられて、それにも、いやだあ(なんでそんなもの)、と笑って、ただ相手にしなかった、といったことがあったけれど、
家に帰って、夕飯の時に、今日はこんなことがあった、と毎度のごとく無邪気に母親に報告したら、
母親が顔色を変えて、「その人はどこにいたの!」と問い質すので、
あっちの公園だのなんだの答えたと思うけれど、この会話はどういうふうに終わったのだったろうか。
おそらく、きわめて怖い顔をした母親の、「そういう人には、絶対に近づいちゃいけませんよ!」とかいう戒めの言葉で終わったのだったと思うが。
そのように、子ども相手に自分の欲求を満たそうという人は、いつの時代でも一定数いるものなのらしい。
私から見れば大学生ぐらいの、少し髪が長めの、印象としてはおとなしそうな男の人だった。
大学生と言えば、一時期、りっぱな秋田犬を二頭連れて、団地の公園に散歩に来ていた、やはり大学生ぐらいの男の人もいた。
この人は団地の住人ではなかったのかもしれないけれど、くるんと丸まったしっぽをした大きな犬を見て、子どもたちがいっせいに集まってくるのを、うるさいとも言わずにいつも静かに迎え入れていた。
でもある時、犬がいきなり私の周りを2頭でぐるぐる回り出して、
煽られた私はすてんと尻もちをついてしまった、ということがあった。
その時にはさすがにお兄さんもちょっと驚いたようすで駆け寄ってきて、
私がすりむいただけぐらいなのを確かめ、「犬は(襲ったんじゃなくて)遊んだつもりなんだよ」と、教えてくれた。
突然犬に周りを取り巻かれてすごくぴっくりはしたけれど、こんな経験は今の、犬を連れて公園に入ってはいけないというルールの下では、出くわすことができないだろう。
また私にはほかにも一時、大学生ぐらいの知り合いになったお兄さんがいて、
公園でみんなと遊んでいて、そのお兄さんに初めて出会った時に――向こうも友だちといっしょにいた時だった――その人が青いシャツだかセーターだかを着ていたので、
以後、勝手に「青いおさかな」と呼んで親しげにしていた。
そして、その人が住んでいた、26号館のほうから歩いてくるのを見かけると、
「あ、青いおさかなだ―!」
などと言ってぶんぶん手をふったりしたものだが――お兄さんもそれに気づくと、笑顔を見せて応えてくれたが――すぐに見かけることはなくなってしまった。
きわめて短期間のことだった。もう親から独立しようとする年頃の人だったのかもしれない。
きっと向こうとしては、うっかりしていたら小学生になつかれてしまった、というようなことだったのだろう。
またある時は、「花嫁さんがいてきれいだから見に行っていらっしゃい」
と母親に言われて、なんだかよくわからないまま、同じ10号館の知らない人のうちに上がり込んで、花嫁さんというものを目にしたこともあった。
白いウェディングドレスに身を包んだ若い女性が、その家の居間らしい部屋で、つつましげにほほえみながら椅子に座っていた。
部屋には軽くつまめるような、お菓子だかサンドイッチだかを載せた小さなテーブルも出してあった。
私はいっしょに上がった子どもたちとともに、どうふるまったらいいのかよくわからないまま、しばしもじもじしながら花嫁さんを眺めていた。
あれがあの頃の、「花嫁送り」のようなものだったのだろうか。
ああやってあの女性は、それまで父母と暮らした団地の家に別れを告げ、教会に行く車が迎えに来るのを待っていたのだろうか。
現代では同じアパートに住んでいる人――特に高齢者――の姿がいつの間にか見えなくなっても、
亡くなったのか、施設に入ったのか、誰もなにも教えてくれないのでさっぱりわからない。
けれどあの頃は、そういった花嫁さんの送り出しだけではなく、お通夜やお葬式も団地の自分の家ですることがあったので、冠婚葬祭があった時にはわかりやすかった。
関係ないよその子たちにとっては、金ピカのお宮のついた黒い霊柩車は、「カッコ悪い」とか「変な車」などとあからさまにからかう対象になったけれど――友だちのお母さんが亡くなった時、それがとても憎たらしかったけれど――最近は仰々しい霊柩車は好まれないということなので、団地であろうとなかろうと、そんなことが起こることはもうないだろう。
ほか、11号館に住んでいた人だったか、むちうちになって、一時期ずっと白いカラーを首につけて外を出歩いていた若いお兄さんもいたし――ドライブをしていて事故にでもあったのだろうか――、
なぜか砂場に、いるはずのない親戚のお兄さんがいるのを見つけて駆け寄っていったら、瓜二つのまったくの赤の他人だった、といったようなこともあった――それでその後はしばらくそのお兄さんとおしゃべりしていたのだけれど、あの時は、買い物帰りに公園を通りかかった母親もすっかり甥だと思い込んでにっこり笑って挨拶し、家に帰ってから私の報告を聞いて、「あら、違ったの?」と言われたりした。
そうやって考えてみると、
あの頃の団地がにぎやかだったのは、なにも子どもたちがいっぱいいたからなだけではなくて、
子どもも、大人も、若者も、みんなが交わり合って生活していたからなような気がする。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?